■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/03/08/mh111311.html 



『マンハッタン説法』を読んで内に向けて探す

(明慧日本)私は1998年の夏に法輪功の修煉を始めました。最初、大法弟子になったことをとても幸運で嬉しく思いました。昔の自分は疑いが深く、敏感で劣等感を持つ人でした。大法を修煉してから、「師父が守ってくださるから、自然の流れに任せる」と考えました。1年後、中共から法輪功への迫害が始まって、私は修煉をやめました。しばらくしてまた修煉に戻りました。

 修煉し始めてから十年が過ぎました。この間に主人は私と仲のいい同僚と浮気をしていました。当時、私は天が崩れたようで耐えられませんでしたが、自分は修煉者であると考え、落ち着いて主人と話し、この家庭のために多く苦労を払った私のことに同情してもらいたかったのです。しかし、主人は聞かずに相変わらず彼女と密接に付き合っていました。私は我慢できなくなり、叱責したり、皮肉を言ったりし、修煉者の「善」と「忍」が完全になくなりました。結局、この2人は周辺の友だちや同僚や上司の忠告を聞かず、さらに身勝手になりました。子供は父親が浮気したため、勉強をしなくなり、毎日ネットゲームで遊んでいました。

 私は苦しくて言えず、学法のとき、あの2人はどこでデートしているのかと考えて集中できず、煉功のとき、心の中で「あの2人は恥を知らない」と罵り、人に真相を伝えるとき、「恥を知らない人は最後にどうしてもつまずくはめになる」と文句を言いました。また、会社の同僚に大法の素晴らしさを伝えたとき、同僚たちに「あなたは家の事をまずなんとかした方がいい」と言われました。

 この数年、自分はこの2人を寛容し、喧嘩せず、メンツを与えていると思いましたが、この2人は悔い改める気がなく、相変わらず恥じ知らずのことをしていました。私は我慢の極限を感じ、「あなたたちはまだ何をしているのでしょうか? 私はあまりにも苦しすぎて大変で、これはいつ終わるのでしょうか? 私はもう力を尽くしましたが、この2人を救えません。法が人間界を正す時期が早く来てほしい、この2人に悪の報いを与えてください」と考えました。

 師父は『マンハッタン説法』の中で、「修煉者として現在社会で行っているこの全てを分かった以上、あなたのプライベートの生活も含めて、いずれも修煉の範囲に入っているので、皆さんは今まで以上に厳粛に身辺に起きた全てに対処し、今まで以上にこの形式がないという形の修煉に厳粛に対処すべきです」を拝読して分かるようになりました。自分はこの数年の修煉は事に当たり、真の修煉を根本的にしていませんでした。師父は「あなたが正しいかどうかに関係なく、この問題は一人の修煉者にとってまったく重要ではありません。言い争わないでください。誰が正しいか、誰が間違っているのかを強調しないでください。いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか? 人心をもって正しいかどうかを強調すること自体は間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手を要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです。(拍手)いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動ぜず、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません」とおっしゃいました。

 この部分の師父の説法を拝読しているとき、私は声をあげて泣きました。師父は私のことをおっしゃっています。私は師父に苦労させ、師父から与えられた向上の機会を常人の侮辱として扱いました。自分のいわゆる寛容は表面的なもので、実際は常人の我慢で、ほんとうの修煉者の忍ではなかったのです。

  振り返ってみると、1999年7.20以来、私は修煉を認めない主人に何も説明せずに争い、自分の今までどおりのやり方で行いました。結局、お互いの関係はいつも良くないままでした。

 師父は『マンハッタン説法』の中で、「最後に心身ともに疲れ切ってしまい、どのようにすればいいのかが分からなくなりました。実は冷静になって考えれば、これらのことは全部解決できます」「実は常人の中で真相を伝えるときも同じで、相手がどういう態度を持っていても、ただ慈悲の心をもって接していれば、彼の心底、彼の生命の分かっている部分が分かるようになります」とおっしゃいました。

 師父の教え及び同修との交流によって、私は慈悲心をもって主人と接することができるようになり、責めと悪罵を浴びなくなり、彼の横暴と理不尽な態度を気にせず、自分の関心と助けを表しました。結局、彼の狂気はなくなり、話も穏やかになりました。私もこの7、8年の悩みを放下し、生活の中の事を修煉としてまじめに扱い、学法のときに集中できるようになり、煉功のときに心の中で罵らなくなりました。

 主人の変化は私にさらに自信をもたらしました。これから、私は彼とよく話し、自分が向上する機会を失わないように一つ一つ関門をよく乗り越えるようにします。子供はまだネットのゲームで遊んでいますが、私の心がきれいになったら、周囲の環境も静かになると信じています。

 この数年の家庭の魔難によって、私は次のように悟りました。関門を乗り越えるとき、業力の転化の要素だけではなく、まだ取り除いていない執着が暴露されます。私は外で人にやさしく、家で気が短い人です。これは中共の党文化の暴力要素と潜在的な闘争心です。これからは絶対に取り除き、多くの衆生を救い済度します。

 2010年3月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/23/218578.html

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