日本明慧
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他人のため、それとも自分のため


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は同修Aの不足を指摘すると、本人に受け入れてもらえず、逆に私が他人をよく指摘し、自身を執着していると言われました。帰宅後、私は同修である息子とこのことについて交流すると、穏やかな心境ではなかったのです。私は同修Aが指摘されたくない執着心が大きすぎると愚痴をこぼし、彼女のためだと思って言ってあげたのに、どうして逆に、私に執着があるというのですか? 彼女の不足を見かけると言わなければ、執着ではないとでもいうのですか? そうなれば、同修に対して無責任な行為になるのではありませんか?

 息子が黙ったまま私の愚痴を聞き終えると、静かに一語を言い出しました。「このように考えてみてください。もし、あなたが本当に彼女のために考えているなら、なぜ、怒りを感じるのでしょう」

 この一語が、ふすまに張られた紙が指で突き破れたかのように、私の心があっという間に広々としてきたのです。「その通りだ。なぜこのように不満を感じていたのだろう?」とびつくりして、急いで内に向って探し始めたのです。その不満は同修Aに認められなかったことと誤解されたことから生まれたものです。自分に自我への執着があると言われても、間違いではないと気付きました。

 この時、息子はすでにパソコンの前に座り込んで、忙しくしています。子供の横顔を見てみると、完全に自分の事に入っており、先に話していたことをすっかり忘れられた様子でした。それに比べると、私は同修Aとよく言い争った後、家に帰っても不満を抑えきれず、息子と次元の差が一目瞭然です。

 しかし、師父が私達はお互いに切磋し、一体として向上するよう要求されており、今回私が師父の言われたことを実行したことになるのではありませんか?と思いました 理解できない私は、息子を邪魔したくないと思いつつ聞いたのです。「自我を執着せずといって、それでは、同修の不足を見かけると言わなくてもいいということなのでしょうか?」

 息子が私の隣に来て座り、穏やかな口調で答えました。「例えば、私の隣の生徒に問題があり、私なら先ず、彼の言い分を聞き問題の出所を探し出してから、それについて、こちらから一つ一つの疑問を投げ返し、彼に考えさせるのです。そうすると、きっと彼が自分で答えを見つけ出すと思います」

 これを聞いた私は納得し感心したのです。息子がまた、すぐ自分の仕事に没頭し始め、母の疑問を解決できたことで嬉しい感情がすこしも表れなかったのです。立場を逆にすれば、私はきっと有頂天になったのでしょう。以前なら、その感激を少しも隠さずに、同修のために喜んでしたと勘違いしました。今振り返ってみると、恐らく自我を実証し出来たことを喜んだのでしょう。

 この出来事は結構時が経ちました。ところが、私は自我への執着が完全に取り除かれていないことに気付きました。時には強く現れていました。

 今日、同修の体験文章の「抜け出すことが出来なければ、旧勢力の按排に従うことになる」を読むと、以前の体験を思い出しました。これを書いたのは、同修に注意を促したいからです。私達の身辺に起きた一つ一つの出来事には私たちの修煉の要素が入っており、相手が常人であれ同修であれ、相手にいくら非があっても、もし、相手の非と不足ばかりに目を止めず、無条件に内に向って探すことができれば、きっと修煉においての法理を悟ることができると思います。

 以上は個人の次元における悟りで、不足があれば同修の慈悲なる指摘をお待ちしております。合掌!

 2010年3月9日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/3/7/219358.html

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