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内に向かって探すしか 修煉の不足を発覚できない


文/中国の大法弟子

(明慧日本)大法の修煉をしてからもっとも乗り越えにくい難関だと思って、自分の不足が分かったのでその難関を書き出して交流したいと思います。

 私は1999年1月から大法の修煉を始めました。当初『転法輪』を2、3回読み終わって、4式の功法を習って、第5式の功法をまだ始まっていない内に迫害が発生しました。

 大法の師父が良い人にならせることは間違いないと分かっています。現地の協調人の按排に協力して、大法に良いことであればなるべく行っていました。昼も夜も、天候にも負けずに続けました。

当時の心に、大法を実証し、世界に大法の素晴らしさを分からせることしか考えていませんでした。

 法を正すことを進めるにつれて、環境も大分変りましたが、私はかえって不精進になりました。師父は「環境が緩和されればされるほど、実は皆さんに対する試練は厳しくなります。」(『二〇〇五年サンフランシスコでの説法』)と説いておられます。
 
 我が村の協調人が私より年上の人ですので、その上自分の依頼心や崇拝かの所為(しょい)で何でもこの人に相談したがります。ある日協調人の冗談半分の言葉に傷づけられました。

人に言われたくない心が現れて、その場は何も影響しませんでしたがずっと気になっていました。不平に思うままで、心に協調人の愚痴をこぼしました。

 それから表面上に見えないですが、実際に協力しなくなりました。ある日のグループ学法で、同修が真相を伝え、人を救い済度の体験を話した時に、私は突然辛い思いが湧いてきて泣き出しました。

これで周りの同修が茫然となって、私の心にひたすらその協調人に対する非が湧いてきました。

 ある日、常人とのトラブルが発生しました。いつもおとなしい息子がよその子を殴りました。

息子のことを片づけた途端に、実家から電話が来て、もともと人と争わない性格の弟が人と喧嘩して、相手が車2台分の人を連れて、刀も持って殺到したとの事、早く助けにきて欲しいと話しました。
 
 よく修煉したと自惚れ(うぬぼれ)ていた私は今度こそ自分のことを考えなきゃいけなくなりました。

このすべてはやはり自分と関係があります。喧嘩ばかりで、自分は闘争心があるじゃありませんか?その協調人との対立も一年余り続いており、私の不善でトラブルを引き起こしたのではありませんか?

 「闘争心を無くさなければ、嫉妬心が生じやすいのです。」(『転法輪』)「悪い人は嫉妬心の行き着く末に、・・・」(『精進要旨』「境界」)と師父の法は再び現れました。

私は自分自身に質問して、嫉妬心がありますか?同修の何を嫉妬していますか?その人は生活も淡々で、いつも私たちの為に資料を転送して、黙々と大法弟子としての事をしています。

反って私は手伝いもせずに、嫉妬して、本当に悪かったのです。ここまで思って涙がこぼれそうになり、心に、「同修、ごめんさない、ご苦労様でした」と呟きました。この時に、「修煉」の意義を分かるような気がしました。

 師父のご啓示ありがとうございました。私は分かりました。そして国内外のかつて私の為に助けてくれた同修にも感謝いたします。


2010年3月12日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/2/25/218802.html

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