■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/03/22/mh244558.html 



時間が経つほど、本物の金は輝く(一)

(明慧日本)私は1992年から修煉をはじめ、迫害を受けるようになり、そして迫害の中で法を実証し、衆生を済度する道を歩み、師父の慈悲なるご加護の中ですでに17年目を迎えました。この緊張感あふれる、宇宙を震撼させた法を正す進展の中で、宇宙のすべての衆生を救うため、そして衆生の将来を思って、偉大なる師父はすべての負担を一身で請け負い、すべての生命のため自分のすべてを尽くしました。この宇宙の旧勢力による巨大な難の中で、大法弟子が乗り越えてきたとは言え、恩師は私たちを守るために受けるべきでない傷害を受けられました。今日、大法弟子が成熟し、円満成就を迎えようとするとき、慈悲なる師父も白髪が増えました。それにもかかわらず、ずっと衆生の済度と大法弟子の円満成就のために努めています。

 今日、恩師に従って法を正す最前線を行く同修は、この最後のチャンスを生かして衆生を救い、悔いがないように精進しています。この無私無我の正法の風貌が天地を感動させました。しかし、この長期にわたる試練の中で、一部の人は少しずつ精進する意思を緩め、少しずつ精進の意志が失せ、少しずつ修煉者から離れていきました。そのため、怠惰になり、消極的になり、ひいては怒りっぽくなり、危険な状態になりました。

 最後になるほど要求が高くなります。最後になるほどさまざまな試練、妨害する要素も多くなります。法に基づいていないとき、正念が強くなければいけません。時間が経つほど、本物の金が輝きます。修煉は非常に厳粛なので、少しの怠惰だけでも破滅につながります。今、修煉者は皆、師父と大法に恩を返すため、自分の誓約を果たすため衆生を救い済度しています。この最後の段階において、この法を正す時期の大法弟子が円満成就する日がますます近づく中、同じ大法を修煉し、そして同じく邪悪の旧勢力による迫害の中で法を実証し、衆生を救い済度する大法弟子なのに、なぜここまで来るとだめになる修煉者が現れてくるのでしょうか? 表面的に見ると、旧勢力による邪悪な妨害、迫害、衆生を淘汰するように見えますが、実際のところ、いずれも自分が精進しないため、自分が法を正す進展に追いつかないために起きたことです。最後になるほど要求が高くなります。少しの人心の執着も、私たちが精進できなくなり、ひいては悪くなり、淘汰することにさせる要素になります。最後になるほど、淘汰される目前の旧勢力などの邪悪な要素もできる限り法に基づいていない、人心の重い、そして執着の多い修煉者を台無しにしようとしているのです。

 長期にわたって法に基づいて法を認識できず、修煉と法を正すことについても常に人心ではかる同修がいます。時間が長くなるにつれ、法に対する信念がますます弱くなりました。一部の同修は昔は全身全霊で師父のおっしゃった「三つのこと」を実行してきました。しかし少しずつ怠惰し、ますます法から遠ざかるようになりました。少しずつ、法を実証することが形式的になり、時間が経つにつれ、三つのことが不真面目になりました。このような状態は危険ではないでしょうか? 

 「早く修煉が終わらないと、国内の多くの大法弟子が台無しになってしまう」と言う人がいます。これほど法に基づかない認識と消極的な発言の背後には、どれほどの執着、恐怖心及び人間の情への執着があるのでしょうか? これは法を正す時期の大法弟子なのでしょうか? また、一部の人は、迫害が長年続いて終わりの気配が見えず、共産党は崩壊しないため、どうしても我慢できなくなり、怠惰になりました。思わず修煉と法を正す最前列から遠ざかり、常人の安逸した生活に執着するようになりました。

 また、これまでに法を実証することをたくさん行ってきたし、法を正すことも最後の最後までとなり、すべてがほぼ決まっている状態になったのを見て、精進してもしなくてももはや大きな影響がないと思い、修煉を緩み、円満成就を待つようになりました。ひいては、様々な恐怖心と人間の情の執着のため、かつて間違いをしたことがあるにもかかわらず、自分の過ちを正す勇気がなく、追いつくことができず、返ってさまざまな原因を理由に自分の恐怖心を隠し、自分の執着を強くしてしまいました。

 今日に至ると、残りの時間が少なくなっていることに気づき、他の同修との修煉の次元のギャップがあまりにも大きくなったことに気づいていながらも、精進しようとせず、かえって怒りっぽくなったり、自分の執着心を覆い隠し、自分の執着心と恐怖心によって今日の自分の状態を作り出してしまったことを考えようとせず、知ろうとしません。さらに、自分の今後を考えようとせず、何も考えずに生きているだけの人がいます。このように考えている人がいますが、これらが最も致命的な執着であり、最後の試練であることを知らずに、誘惑の中で堕ちていくのです。 

 法を正すことは極めて厳粛なことです。厳しい修煉の道、及び法を実証する偉大さの中で、衆生を救い済度する道の上で、数え切れないほどの魔難が妨害するのみならず、旧宇宙の様々な要素、人間の情に対する執着、さらに旧勢力による妨害や、修煉者自身による人心の執着のいずれも私たちを精進させないものであり、ひいては修煉をやめてしまうための危険要素です。ひとたび大法から離れれば、ひとたび精進の意志を緩めて世俗に流されてしまえば、それは極めて危険なことです。万古の機縁が過ぎれば、真相が現れてももはや取り戻すことのできない過ちになります。私たちは大法弟子です。文字通り、私たちの心、考え、そして頭の中に大法がなければ、大法をもって自分を充実させなければ、行い、大法をもって言動を律しなければ、私たちは何者にもならなければ、極めて危険な状態になります。私たちは刻一刻と真・善・忍の要求と符合しないものはないか、たとえ極めて小さな一念であっても、必ず即時にそれを取り除き、決してそれらに私たちの正念及び言動に影響を与えさせてはなりません。この一念がどんなに小さく見えても、どんなに執着しても、どんなに強くても、決してそれは自分の一部と思ってはならず、これは自分ではないとはっきり理解しなければなりません。そのため、私たちは自分の一念を常に見つめなおすべきです。

 (続く)

 2010年3月22日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/4/23/199359.html

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