■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/03/26/mh271832.html 



心性の関門を乗り越える時に、内に向かって探した体験

(明慧日本)修煉の道で偶然に出会うことはありません。物事の表面だけに注目し、あるいは誰かの非を探すのではなく、師父が下さった「宝」である内に向かって探すことに力を入れれば、自分の執着を取り除き、向上することができます。

  最近、私は心性の関門を乗り越える際、絶えず内に向かって探すことを通して、多くの執着心を見つけました。師父が下さった向上するチャンスに感謝したいと思います。

 私は夫と結婚後、ずっと都市で商売をしています。そのため、農村には一軒屋が残されていました。私には娘が1人おり、義理の兄には息子が1人います。

  夫の両親と兄夫婦は、私達の一軒屋を兄夫婦に譲るように願う一方で、私達にその代金は出さないというのです。これが私の心に衝撃を与えました。自分が修煉者だと分かるので、表向きには平静を装い、内心は悔しさで煮えかえっていました。そして、長年積もった怨恨も思い出しました。

 内に向かって探すと自分はまだ多くの執着心を持っていることが分かりました。例えば、嫉妬心、怨恨心、利益の心などです。

  これらの執着心が絶えず湧き出すと、怒りを抑えきれず、不公平だと思い、姑がえこひいきをしていると感じ、自分は良く親孝行をしているのに、義理の兄夫婦より良い待遇をしてもらえず、その上、家を彼らに譲るように言われ、とても不公平だと思いました。また、自分が執着心を放棄できたと思うと、「あなた達がこのように貪るとよいことがあるだろうか」と、怨恨の心が生まれ、ついに夫の両親の前で兄夫婦の悪口まで言いました。

  これらの執着心を見つけて、自分でもびっくりしました。私はまだ修煉者だといえるでしょうか? このような悪い考えが絶えず浮かんできているのに、なぜ取り除かないのですか? これらはすべて自我への執着ではありませんか。このような状態で旧宇宙から抜け出すことができるでしょうか?

 すべての物事には根元があり、世の中のすべての不公平はただ表面の現れで、常人はただ輪廻の中で業を返しています。修煉者としては輪廻から抜け出し、業を返しながら心性を向上させなければなりません。

  私はなぜ他人の視点に立って物事を考えないのでしょうか? なぜ自分の立場を固持しつつその中から抜け出すことが出来ないのでしょうか? 私達はこれから村に移住することはなく、家を建て直すことも更にないと思います。

  もし、兄夫婦に譲れば、家を建て直すなら、夫の両親も新居に住むこともできます。これはよいことではありませんか。両親は良い住いが得られ、兄夫婦も近くにいることもできます。私が我慢すれば、姑達もよりよい生活ができるようになるのではありませんか。他人の立場で考えると、全く違った結論がでました。

 こう考えると、心が穏やかになり、師父への感謝の気持ちが胸に満ちました。師父が多くの業を減らしてくださり、私達を済度するため、多くの苦を嘗めてこられたのに、私達が放棄できない理由が何処にあるのでしょうか。

  世の中のすべての物事は表面から見ると、絡みが多くありますが、因縁から離れられないのです。修煉者としての私達はその中から心を修め向上しなければなりません。自我を放棄し、無条件に内に向かって探せば、迷いの中から物事の本質を見出すことができ、執着心を取り除き、心性を高めることに繋がります。

 個人の悟りで、次元が限られており不足があれば、ご指摘をお願いします。

 2010年3月26日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/3/24/220330.html

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