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同修の文章「自分を見て内に向けて探す」が私に与えた啓発


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は夕食後に明慧ネットの文章をダウンロードし終えたあと、もう1篇の文章「自分を見て内に向けて探す」が目に留まりました。読み終えて、思わずこの2日間に私の身に発生したことを思い出しました。

私は貿易の仕事をしています。最近ニュージーランドの60歳過ぎの顧客と数回取引がありました。取引の中でいつもあちらを立てればこちらが立たずということで、相手の注文書やインボイスに時々記入ミスがあり、甚だしきに至っては簡単な計算ミスが起きるのです。そこで私は相手と数回やり取りをしてやっと契約にこぎつけていました。

それが数回続くと、私は嫌になり、相手とやり取りをする中で礼儀を守ったつもりですが、話す口調はすでに相手を威圧する面がありました。相手もそれを感じていて、メールの中で「we seem to be at cross purposes(私たちは合わないようですね)」と書いてありました。相手は私のことをこのように思ったにもかかわらず、私はそのことを特に気に留めませんでした。しかも自分が修煉者であることさえも忘れてしまい、修煉者としての善良で寛容な姿は全くありませんでした。

甚だしきに至っては国内の取引会社の担当者に電話をかけるとき、相手のことを「ぼけ老人」とか、「爺」と呼び、「もういい年なのに、まだ退職しないのか」と相手が傷つくような言葉を話していました。ここまで書いて、初めて意識したのですが、自分のそれらの行為には善のかけらもなかったのです。だから夫はいつも私に対して「口が悪い」とよく言いましたが、私はぜんぜん気に留めず、しかも自分はいかに善良で寛容のある人間かをいいふらしていたのです。

この一両日、ある出来事が私を目醒めさせてくれました。それは伝票に押すべき印鑑を忘れ、数字を書き間違えていました。幸いなことに出荷する前に発見したので、大きな問題になりませんでした。

この出来事の後、私はなぜ間違えたのか、探してみました。それは自分の最近の言動に原因があったと分かりました。だから師父が私を悟らせるために間違いを起こさせたと悟りました。以前はいつも純正なる心理状態で仕事していましたので、間違いがなかったのです。この度の仕事では不純な心で相手を揶揄したため、結果として自分の身に同じような間違いが起こったのです。

同修の文章を読んで、内に向けて探したことで、自分には善良や寛容さがないこと、他人のことを先に考えていないこと、強烈な顕示心や口を修めないこと、同修と協調したくないこと、安逸心などなどの執着心がありました。これらの執着心のすべては「私」から生まれたことも分かりました。以前の修煉の中でこれらの執着心を察知し、無くしたつもりでしたが、根本から取り除いていなかったため、これらの執着心に助長する空間を与えてしまい、自分をコントロールするようになったのです。毎日のように学法したのですが、入念に学法しておらず、法をもって自分のすべての念を律しなかったため、人心を取り除くことができなかったのです。
、今
師父がよく話されますように後よく学法して、自分を真の修煉者として厳しく要求し、残された修煉の道を正しく歩むように、精進したいと思います。

2010年4月2日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/3/29/220621.html

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