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グループ学法の中で修める


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は1999年「4.25」ごろから法輪大法の修煉を始めました。グループでの学法の環境がなく、ずっと1人でした。ある日数人の年配の同修と一緒に学法して、自分の悪い癖と普段気付かなかった執着が分かりました。

 私が部屋に入った時にすでに4人いました。見る限りみな老人ばかりでちょっとがっかりしたところで、すぐに自分は差別の心があると気付きました。皆一緒に正時の発正念をしてから学法を始め、ある同修が経文を持って読もうとした時に私は考えもせずにその経文を取って、当たり前のように自分が読みました。隣の同修が、ここは皆交替で読むのですと注意してくれました。

 私は自慢の標準語で『精進要旨』を読みましたが、最初の段階で声がちょっと濁って雑念もいろいろ生じました。口では経文を読んでいましたが、心が入らず、ひたすら読んでいるだけでした。このような雑念をなるべく排除して徐々に流暢になりました。しかし自分は人の観念を持って同修との関係をみていました。同修達の年齢が高いから、やはり私が読んだ方が良い、そして自分の標準語がよいと少し顕示心もあったことに気付きました。

  ここまで思って、喉がちょっと乾いた感じで咳をしました。このとき同修が読んでいいですかと声を掛けてくれました。私が本を渡すと、同修は方言で流暢に読みました。続けてもう1人の同修が読んで、しかももう一つのところの方言で読んだのです。徐々に、私の私心が根深いと分かりました。なぜなら、最初私が読もうと思った時、他の同修が私の読んだ経文が分かるかどうか全然考えませんでした。標準語なら大体分かるかもしれませんが、私は全然考慮せず聞きもしませんでした。物事をする前にまず人のことを考慮すべきと師父は説かれたので、この点で見ると漏れがあるに違いありません。

 学法を終わって私は十数枚の神韻DVDを持って帰り、途中で2枚を配って残りを家族や親戚に見せようと思いました。ここで自分がまだまだ家庭の範疇から脱け出せずに平等に衆生をみていないと分かりました。根本的に人の考えを変えるのは難しく、日常生活の中で考えることにより深く隠れている人心や執着などを発見することができます。内に向かって探すことは本当に宝です。

 1回グループ学法に参加しただけで、これだけの不足が分かりました。師父に按排された学法の環境を大事にして、三つのことをしっかり行い師父の慈悲な済度を無駄にしないようにしたいと思います。

 少しだけの悟りなので、皆さんと交流し、不足を指摘してください。

  2010年4月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/3/220907.html

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