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MP3プレーヤーをなくして体得したこと

(明慧日本)先週、私は駅で同修を迎え、2人で一緒に私の娘の家に行きました。家を出る前に何時でも聞くことができるようにとMP3プレーヤーを外側の上着のポケットに入れました。娘の家に着いてMP3をベッドの上方にある台の上に置いたような気がしましたが、夜になってそれを探してもありませんでした。私はまた近くの家に戻って探しましたがありません。どう焦っても、引っくり返して探してもありませんでした。私は、自分がふだん気まぐれで、よく物忘れをし、いい加減だったので、午前中に道でなくしたのかも知れないと思いました。

  娘は私に「ポケットが浅くて落としたんじゃないの?」と聞きました。私が「少し浅い」と言うと、娘は「どうして注意しなかったの?」と言いました。私は「そんなに言わないでよ、私は本当に思い悩んでいるんだから」と心の中で思いました。母は、私が焦るのを心配して「もういい、なくしたらなくしたでいい。きっと縁のある人が拾って法輪功を知るでしょう、よいことですよ」と慰めてくれました。私は「きっとそうだよ」と言いました。口ではそう言いましたが、心の中では本当に嫌な感じがして、どうしてこんなに愚かなのかと自分を恨みました。その後数日間、この区間の道路を往復しながら、心の中では「思いがけずMP3を見つけられたら」と願っていました。

  心を静めてよく考えてみると、これは小さなことではないと認識しました。大法のものが入っている MP3をなくしたことは、私の修煉にもれがあるということです。自宅から資料拠点まで約1〜2時間かかります。この時間を無駄にしないため、乗り物に乗った時、MP3で師父の説法を聞いていました。ぼんやりして寝てしまう時もありました。このような状態を抑えようとしましたが、やはりぼんやりする時があります。これはよくないことだと知ってはいますが、少しでも聞いた方がよいと思っていました。

  実はこの時、すでに執着心を形成していたのです。法を学ぶことを任務として、多く学べば状態がよくなり、さもなければ状態がよくないと思う執着心です。深く考えると大法を利用して、自分の利益を考える現れです。このような状態がしばらく続いても悟りませんでした。法を聞く、こんなに神聖なことにどうしてこのように対処するのでしょうか。これは師父に対し、大法に対して不敬なことではないでしょうか! これは断章取義(文章や発言の一部を切り取って利用する・文意を歪曲すること)で法を聞くことに等しいのです。勿論本当に真剣に集中して聞くことはよいことです。私のような状態で法を聞くことは絶対によくないことであり、神はすべてを見ていて、許されることでしょうか? MP3をなくすのも当然ではないでしょうか? 私はさらに法の貴さと法を学ぶことは厳粛なことであり、真剣に対応して初めて修煉の道を正しく歩むことができると悟りました。

  これらを認識した後、夜家に帰ると、意外にもなくしたMP3が戻ってきていたのです。それは私が冬着ていたあの毛織のベストのポケットの中にありました。私はMP3をささげ持ち、感動して、師父のご慈悲に感謝し、大法の神秘さを、身をもって体験しました。

  個人の悟りで、足りないところは同修の皆さんのご指摘をよろしくお願いします。

  2010年4月7日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/6/221068.html

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