■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/04/18/mh192660.html 



重い病業から解放され、体得したこと

文/海外の大法弟子

(明慧日本)2カ月前に私の体に厳重な病業が現れました。以前はずっと自分の修煉が良くできていると思い、真相を伝えることにも積極的で、同修から見て私はけっこう精進している弟子でした。修煉を始める前に重い病気になったこともなく、どこに問題があるのかも分からず、体の苦痛と精神の困惑で自信をなくしました。心を鎮めて自分の内に向けて探し、執着心があることに気づいたことで、厳重な病業から抜け出すことができました。

  2カ月前、心臓病に似たような状態になりました。発作のとき、心臓はコントロールが効かずに激しく動いたり不規則に動いたりしました。明らかに死にかけているような感覚に陥ることがあり、コントロールができず全身が震えました。当初、私は心臓病がきっかけで修煉を始めました。しかしこれほど酷いものではありませんでした。私は心を静めて内へ向けて探そうと学法し、同修と交流して、深く隠れていた二つの執着心を見つけました。顕示心と色欲です。

  見せびらかしたい心理と名利を求める心はとても強いもので、他の人に認めてほしくて、自分に対する見方がとても気になりました。だから、自分にその能力がなくても同修が私に手伝ってほしければ全て引き受けました。時々忙しすぎて学法する時間もなくなりましたが、同修のことは自分のことだと言う言い訳で自分の名利を求める心を覆い隠すこともありました。私の周りは褒める声でいっぱいでした。私もいつも自分はほかの人よりできるとおもい、他の人を見下してしまい、表面に現れたことだけを認識して、自分はとても素晴らしいと思っていました。

  学法するときも謙虚になって師父の教えを心から聞くのではなくて、傲慢になってしまい、とても危険でした。私はより深くこの執着心の源を掘り出しました。私は子供のとき、ほかの子供にいじめられたことがあり、とても卑屈になってしまいました。だから私は最大の努力をして、自分は人に非難されないようになろうと決心したのです。

  色欲について私は重視しませんでした。夢の中で色欲についての試練にあっても、ほとんどうまく乗り越えられました。周りの男性に好意を持ったりするときは、この良くない考えを排除しました。だから、自分はこの方面に問題はないと思っていました。しかし、夢の中で色魔に惑わされて身動きが取れないと気づいたとき、私はやっと真剣になって自分の色欲の心を探し出しました。私は徹底的にこの色欲を取り除いたわけではないと気づきました。名利の心理と混じって、表では異性の前で自分の外観が気になったり、好ましいと思う男性に心が揺れたりします。発正念をして取り除こうと決心したとき、この心はとても頑固でした。今になっても完全に取り除いていません。

  自分は執着心を見つけたと思っていましたが、体にはもっと酷い病業が現れました。そのとき、私の体は氷のように冷たくなり、一つ一つの細胞が互いに殺し合っているようでした。死と向かい合わせになった時、私の恐怖心が出てきました。私は大法に対して岩のように堅固ではありませんでした。その時、現代科学の知識や医学知識、無神論のようなことが次々と飛び出してきたのです。

  そして、私は常人のものを根本的に手放したわけではないと気づきました。いつも苦しい目に遭うことを少なくしたくて、常人の中で、気持ちよく最後まで修煉したいと思っていたのです。その時、私は本当に師父が言っておられた「この領域を切り開くには、常人の認識を根底から変えなければなりません」(『転法輪』「論語」)の新たな意味を体得したと思います。

  私は一生懸命に努力して学法しました。当時は精神的な圧力が大きく、とても困惑していました。自分はすでに執着心を見つけてなくそうと努力しているのに、なぜ旧勢力はこんなに私を迫害しようとしているのだろう? 同修も私の執着心をたくさん見つけてくれました。何もしないで楽になりたい心理、嫉妬心など、しかしこれで返って自分に自信がもてなくなってしまいました。そして恐怖心も生じてしまい、自分は良くできていなくて迫害されるのではないかという恐怖でした。だから私は一生懸命に学法しました。しかし状況はよくならず、そのとき本当に絶望を感じました。

  ある日、突然に悟りました。私はこのまま家で落ち込んでいる場合ではない。私は何のために修煉したのか? 人を助けるためではないか! 私はただ自分が精進することしか頭になく、衆生を忘れていました。このような利己的な心は旧勢力と同じではないでしょうか。師父は私たちに「他の人を先に、自分を後にするという正覚にまで修め遂げなければならないのです(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)と言われました。

  また、師父は『米国西部での説法』では次のように言われました。「表面では体裁の良いことをし、心の奥で放したくないものを守り固守しているのであれば、それは絶対いけません。ご存知のように、佛、神は衆生のため、宇宙の利益のために命を放棄することができ、何でも放棄することができます。しかも、その時平然として動じないのです」 このとき、私は上に述べたような様々な利己的で自分のためという執着心の源に気づきました。ここで私は決心しました。今なすべきことは自分のことを全て放下して、ほかの人を救うことです。師父が決めてくださった道を歩き、誰にも邪魔はさせません!

  生死を気にせず真相を伝えに出たときから、私の病業がよくなり始めました。私自身は精進する中で自分の過ちは自分で耐えなければならない一部もあると悟りました。たとえば、私は迫害の中で「三書」を書きました。海外に来て二度、生のはまぐりでスープを作ろうとしたことがありました。当時は夫に厳しく指摘されても、私は理由を付けて自分のために弁解しようとしました。殺生の厳重性を認識していませんでした。

  精進する過程で、私は師父がそばで私を守ってくださっていることを感じます。寝ていても法輪は私の体を調整しているとはっきり感じました。そして私が良くできたとき、師父は私に少しの情景を見せてくださり、私を励ましてくださいました。まだ病業から抜け出せない同修に、どんなときも自分と大法に自信をなくさず、苦難を早く乗り越えることを心から期待しています。そして、この場を借りて、ずっと助けてくれ、励ましてくれた同修に深く感謝を申し上げます。

  現階段での体得ですので、不適があれば慈悲なる指摘をお願いします。

  2010年4月18日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/3/31/220740.html

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