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「老、病、死」に対する認識


文/善言

(明慧日本)私の周りにいる多くの年配の同修は、大法を実証することをよく行い、修煉の道で精進しています。同修たちは、同世代の人たちと比べて確かに若く見られていますが、老化現象が現れる人もいます。また、重い病状が出ている人もいて、さらに旧勢力に生命を奪われる人もいました。

 師父は「老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです」(『轉法輪』)とおっしゃいました。「病気」に対して、過半数の大法弟子は「修煉者には病気がなく、体の調子が悪いときは、業を滅しているのであり、病気ではありません」と明晰な認識をしています。病気という悪魔は大法弟子に近づけないのです。しかし、法理をよく理解していない大法弟子は、体が苦しくなると病気だと考えてしまうのです。実はこの考えが、病魔を求めることになり、病魔を体の中に押し込んでしまいます。身体は病業状態が続くことになり、長期的に病業の関を突破できません。法理が明晰で正念の強い同修は、「病業」をとても速やかに突破できます。これらの同修の頭の中に根本的に「病」の概念がなく、「病」という魔はまったく隙に乗じることができず、同修の空間場に入ろうとしても入れません。

 「老」という魔に対して、明確な認識を持っておらず、特に年配の同修は、いつも自分が歳を取った、年老いたと考え、それは自然現象だと考えています。意図的か無意識かわかりませんが「老」という魔が自分の身体に存在していると承認しています。この考えは、病業の関を突破できない同修と同じ道理です。

 私と妻(同修)は今年でともに43歳で、人からよく私たちは30歳ぐらいだと言われます。私たちの性格は楽天的で、根本的に「老」という概念がありません。私たちは30歳ぐらいのときから大法を修煉し始めたので、修煉をして十数年経っても、私たちはずっと自分が30歳だと考え、根本的に「私は老いた」という概念がありません。ですから身体と考え方は若い時の状態を保っています。

 しかし、年配の同修は、大法を修練し始める時も60、70歳だったので、「私はすでに老いた」という観念はすでに修煉する前から形成しました。修煉をして何年も経っても、この観念をずっと持っていて、正確な認識をしていません。 「私は老いたから、脚が不便になっている」という話を常に口にしています。実にこの認識はすでに「老」の魔が自分の身体に存在することを承認したから、それにつれて、本当にゆっくり老化していき、さらに老衰状態が見られるようになりました。修煉や法を実証することにも影響を与えました。例えば、「歳を取ったから、学ぶことができない」などと言っています。

 私は、この「老」は三界の中の「情」と同じように、常人のために作られたものだと認識しています。大法弟子として明確に認識すべきで、私たち大法弟子は「老」を承認してはいけません。私たち大法弟子は本当にこの観念を破れるときに、頭の中に「老」の概念を超越し、「老」は私たちをコントロールできなくなるはずです。そして、精神と物質はひとつのものであるから、表面の肉体は老衰しなくなります。

 「死」についての認識を少し話しますが、「老」、「病」などと同じで、三界の中で作られたと思います。大法弟子は修煉の過程でしだいに世間に対する一切の執着を放下し、最後に生死を放下できるようになると、この「死」は永遠に遠く離れることができます。なぜかというと、私たちは生死に対する執着を放下し、超越することになり、「死」は大法弟子を牽制することができなくなります。

 以上、私の「老、病、死」に対する少しの認識ですが、次元が限られているため、間違いもあると思います。私の目的は、多くの年配の同修が「老」という観念に束縛されないように、いっそう若者の心態で大法を実証することを行い、いっそう大法を実証することにもっとも力を発揮できるようにするためです。

 不適切なところがあれば、同修のご指摘をお願いします。

 2010年4月19日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/4/8/221156.html

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