■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/05/01/mh031786.html 



衆生を救い済度することが第一(一)

文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は1997年から大法の修煉を始めました。以前、肺結核、リューマチ性関節炎などの持病があり、非常に苦しめられましたが、修煉を通じて完治しました。真に無病状態を感じて、生命の真の意義を知りました。

 上京して陳情

 1999年7.20から、中国共産党は気が狂ったかのように大法と大法弟子を迫害しています。師父と大法の無実を取り戻すために、私は8回上京して陳情しました。そして大法の偉大さ、師父の慈悲および多くの大法弟子の生死を放下した偉大な壮挙を目撃しました。

 2000年7月、私は同修Cさんと一緒に天安門広場に行きました。警官は「おまえたちは陳情しに来たのだろう。俺が連れて行ってやるよ」と言って、私たち2人を車に乗せ、ドアを閉めました。そして、数人が私たちを30分間滅多打ちして車から降ろしました。顔が饅頭のように腫れた私は、陳情しに来たのに殴打され、このままではよくないと思いました。そこで、中南海に行き警察の暴行を暴露しました。私たちは地元の警官に連れ戻され、留置場へ監禁されました。留置場の警官は、「我が市の委員会の書記でさえあの中南海には行けないのに、お前らが行く所か?」と怒鳴りました。

 私は『転法輪』を身に付けていたため、奪われるのではないかとずっとどきどきしていました。一緒に監禁されていた同修は天目が見え、ある日その同修は、「師父はあなたの恐れている様子を見てとても悲しいとおっしゃっていましたよ」と言いました。その話を聞いて私は恥ずかしくなり、泣きました。師父を悲しませて、それでもまだ大法弟子でしょうか? 生死を放下して、『転法輪』を守らなければなりません。そこで、私は決意して恐怖心を取り除き、翌日には無条件で釈放されました。

 2001年10月、同修と一緒に北京へ陳情しに行こうと約束しました。時間になっても同修が来なかったため、私は一人で北京の天安門に行きました。警官に捕えられて取り調べられ、私は正しい念、正しい行いをもって、警官に協力しませんでした。結局、事情聴取した警官は午前中ずっと「真・善・忍は素晴らしい」、「法輪大法は素晴らしい」とばかり繰り返し書いて、最後に「最後まで頑張ってくださいね」と励ましてくれました。午後、他の警官に続けて取り調べられ、私は動じず、最後にその警官は「何も言わないで」と私に教えてくれました。

 2週間後、私は河北省の承徳へ移送され、騙されて自分の住所を自白してしまいました。地元の警官は私に手錠をはめて汽車に乗せました。私の向かいに座ったのは1人の軍人で、自己紹介によると、専ら法輪功を担当しており、今回は私を説得しようとしました。私は純粋な心で、「4.25」や「7.20」の真相を説明し、そして私の修煉体験を話しました。話を聞いた彼はとても感動して、私にバナナを剥いてくれました。そして、これらの真実をすべて認識することができ、感謝すると私に言いました。そばにいた地元の警官も静かに聞いて、事実を理解しました。私は地元に戻って13日間断食をして、出所することができました。

 2005年5月、私は他の同修Aさんと一緒に天安門広場に「真・善・忍」「法輪大法は素晴らしい」の横断幕を掲げて、警察署に監禁されました。当日Aさんは正念をもって出られました。私はある支局に移送されました。最初、数人の警官が交替で尋問し、住所や名前を聞いても答えが得られなかったため、私を眠らせませんでした。翌日、4人の警官が来て、同時にスタンガンを持って私に電気ショックを加えました。鉄の椅子に縛って、私の頭、顔、唇、手、首に乱暴に電気ショックを加え、部屋の中に焦げた臭いが漂っていました。私は絶えず「生死を放下し、金剛の如く不動」と念じ、自分をますます高く、大きく感じました。しかし、突然自分がエスカレーターのように下へすべり降りているのを感じて、急に自分の念が間違っていたと意識しました。この念を滅して、強大な正念を発しました。「私の使命は師にしたがって法を正し、衆生を救い済度することです。外に出て衆生を救い、留置場の所長と関係者に明日の朝、無条件に私を釈放させよう」と念じました。翌日、警官は車で私を北京西駅まで乗せて帰らせました。汽車で家へ帰り、傷だらけの顔は数日後には治って、傷跡もありませんでした。

 (続く)

 2010年5月1日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/25/222068.html

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