天津事件の体験者:「中国共産党が迫害を企てた」 文/オーストラリアの大法弟子
(明慧日本)オーストラリアのメルボルンで行われた「4.25」11周年の記念活動で、梁琳達さんに会った。梁さんは「天津教育学院事件」に言及し、その事件に関するさまざまな記憶を回想した。
暑いのに水を飲む人はいなかった
1999年4月11日、中央政法委書記・羅干の親戚の何ゾキュウが、『青少年博覧』に「私は青少年が気功を練ることに賛成しない」という文章を発表した。何は、1998年に北京TVで報道され、すでに暴露された嘘を引用し、再び、法輪功を批判した。
その文章が発表された後、天津の法輪功修煉者は自らの体得から、国の「出版管理条例」により、4月18日から20日まで、雑誌編集部、教育学院及び関連機関に向けて事実を明らかにしてきた。その条例は、「新聞、雑誌などに発表された内容が不真実、不公正という理由で、公民、法人及び他の組織の合法的な権益を侵害する場合、当事者からそれについての是正及び答弁の要求があった場合、出版社は新聞及び雑誌に発表しなければならない。発表を拒絶した場合、当事者は提訴することができる」というものである。事実を明らかにするために、4月18日から法輪功修煉者は続々と天津教育学院に来て真相を伝え、編集部は必ず是正しなければならないと要求した。
4月21日朝、梁さんはバスに乗り、学んでいる天津軽工業学院(今の天津科学技術大学)から天津教育学院に行った。「バスから降りると、法輪バッジを付けた法輪功修煉者が目に入った。道の向こう側を見ると、ずっと並んでいるチームがあり、それは絶対に同修だと思った」と言った。なぜなら、その時、中国では他の団体が並んでいる光景を全然見なかったからである。直感で彼女は教育学院が道の向こう側にあるはずだと思った。道を渡ってから、右に曲がる交差点で静かに立っている修煉者が目に入ったが、正門の左に止まっているパトカーと全く調和せず、怖い感じがしたことを思い出した。
その時、他の車はぜんぜん通行できなかった。教育学院の中には修煉者が大勢いた。老人もいるし、赤ちゃんを抱いている母親もいた。皆が静かに立ったり、本を読んだりして、平和な雰囲気に満ちていた。「その光景に修煉者の私はとてもショックを覚えた。当時、私はハイヒールを履き、6時間立っていた。足が痛く、しゃがんで休憩したかった。しかし、しゃがむその瞬間、恥ずかしくなった」
「その日はとても暑かった。誰かが水を買ってきたが、皆は全員、自分は飲まず、他人のためにその水を人の群れにずっと手渡ししたが、飲む人はいなかった。ある同修は18日から真相を伝えるために、ここに4日間いた。周りに知っている人はいなかったが、不安感は全然なく、教育学院は平和な雰囲気に包まれていた」
北京に陳情に行くことを天津の警察に催促される
出版社が事実を理解し、誤りを是正するよう声明を出そうとした時、4月23日、24日に形勢が突然変化した。天津市公安局は2日連続して、警官が出動し、善で平和な団体を追い散らしたり、殴ったりした。ある修煉者は傷つき、血を流した。およそ45人の修煉者が逮捕された。梁さんと一緒に学法していた女性は警察の暴行を目の当たりにしたという。23日午後5時頃、和平公安支局は「法輪功修煉者が集まって、静座することは法律違反」と宣言した。
夜8時頃、約400人の警官が来て、「帰れ、帰れ」と叫び、正門に立っていた子どもは怯えて、泣いてしまった。院内の女性は帰らないので、警官がその人のスカーフをはずし、スカーフで顔を被い、他の4人の警官が女性の両手、両足を掴み、外まで引きずり出し、ズボンを引き裂いた。警官は「帰らなかったら、この結果だ」と脅した。ある修煉者は直接パトカーの中に連行された。
現場の修煉者を逮捕するだけでなく、家にいた修煉者も逮捕された。ある修煉者が同修の釈放を要求した時、天津政府は「北京公安が直接介入したので、北京の指令がなければ修煉者は釈放できない」と告げた。天津市政府の信訪局は「これは、上の決定だ。あんたたちに何か意見があれば、北京に陳情に行った方がいい」と修煉者に通知した。これが、注目された1万人の「4.25」平和陳情の由来である。
弾圧を事前に計画
4.25事件が発生した後、学校の党支部書記は梁さんと面談した。「もしあなたが法輪功を放棄しなければ、除籍される恐れがある」と告知し、思想報告を書かせた。「私は修煉を放棄する保証書を書かず、修煉してからの自分の変化を書きました。実は、書記と相談する前に、担当教師は私のことを理解していたので、彼は私の変化がはっきり分かっているはずです」と言った。
「1998年5月、『転法輪』を初めて読んだが、煉功は9月からだった。大学の3年以前、私の成績はクラスの中で中かそれ以下で授業をサボっていた。ある授業は出席率が3分の2に満たなかった。なぜなら、私が勉強している専攻科は学生は多く、行かなくても先生には分からなかったからである」 法を得てから、かつて先生に一度も褒められたことのなかった梁さんが大学4年前期の成績が良く、すべての先生が見直し高く評価した。「私は卒業する時、論文の成績がよく、先生にその優秀な少人数の中に選ばれた」と言った。
当時、学校での集団煉功は、梁さんがテープ・レコーダを準備し、毎日、皆と一緒に煉功した。党支部書記は梁さんが修煉する気持が強く、堅持しているのを見て、「今は、堅持しているが、2カ月過ぎたら、あなたはやらなくなるよ」と言った。1999年7.20、中国共産党が全国的に法輪功を弾圧してから、梁さんは党支部書記の話が分かった。実は中国共産党は法輪功に対する迫害を前もって注意深く計画していたのである。その迫害のために、聞こえの良い理由を探し、中国人と世界の人々を騙した。
信仰を守るために、故郷を離れた
2008年7月、梁さんと家族はオーストラリアのメルボルンに移住し、自由に信仰し、自由に煉功する生活が始まった。9年間、法輪功を放棄しないため、梁さんと夫(同じ法輪功修煉者)が一緒にいた時間は少なく、4回失業したことがあり、5人の同修が迫害され、死亡した。梁さんの姉婿一家の11人はすべて修煉していたが、中国共産党の迫害で、老人と子ども2人しか残っていない。姉婿は盲人だったが、法輪功を修煉して、視力が回復した。しかし、2004年、法輪功の修煉を放棄しないため、警察に内モンゴルの刑務所に拘禁され、迫害を受けた。
罰として長時間、警官にしゃがまされ、その結果、脱水し、視力を失った。警官はそれを見て、やむを得ず釈放した。姉婿は赤峰に戻って来たが、梁さんが見舞いに行き、ぼろぼろの部屋を見て、涙が出た。真に梁さんが感動したのは、姉婿は迫害に直面しても、生死を気にせず、師を信じ、法を信じるという固い信念であった。
移住してから、初めて7.20反迫害活動に参加した時、梁さんは積極的に迫害される役を演じた。穏やかな「普度」の曲を聞き、涙が出るほど感動した。「私は国内の同修を思い、国内の親戚を思い出した。こんなに素晴らしい功法なのに、こんなに素晴らしい人々なのに、なぜ迫害されるのか」と言った。
現在、梁さんの一番大きな願望は、中国大陸の法輪功修煉者に自分と同様に、自由な煉功環境があることである。それと同時に、嘘に騙された中国人が1日も早く真相を理解するようになることだ。「私はより一層、良く行うことができます」と微笑みながら言った。
2010年5月4日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/26/222251.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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