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学習者から弟子になる(一)

文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は結婚適齢期を過ぎた未婚の大法弟子です。1998年10月から法輪大法を修煉し始めました。大法のことについてまだよく分からず、完全に溶け込んでいない中、1999年7.20をむかえ、師父の『米国フロリダ州法会での説法』の中で説かれたように「天地を覆い隠す邪悪がやってきた」のです。

 多くの同修が様々な方法で法を実証しようと続々と行動に出ましたが、私は一時途方に暮れていました。そして、師父が誹謗中傷される中、弟子としての私はどのような行動を取るべきかを考えました。

 師父の『妨害を排除せよ』の中で「わたしは一人の学習者にも落ちていってほしくはありませんが、ただし、基準に達していない弟子も決して欲しくはないのです」と説かれた法を思い出し、申し訳ない気持ちで胸が一杯になりました。心の中で「佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で乞食をしていたのです。 さらにわたしは今日、門戸を大きく開いて大法を伝えて、皆さんを済度していますが、わたしは無数の苦を嘗めても苦しく思ったことなどないのに、皆さんはまだ何か放下できないものがあるのでしょうか? 心の中で放下できないものを天国へ持って行くことはできるでしょうか?」(『精進要旨』の「真修」より)と必死に暗唱しました。

 それから、2000年旧正月になる前、私はある同修と一緒に法輪功の真実を訴えるため、始めて北京に陳情に行きました。当時、北京で監禁されていた時、私は心の中で「ここの環境は良くない、私のいるところではありません」と師父にご加護を求めてから、翌日になって、私は留置所の警察に「私は素晴らしい大法に合法的な環境を与えるよう訴えにきたのであって、目的を達したので、私と同修を釈放してください」と強く要求しました。師父のご加護の下、私達2人は無事に家に帰りました。

 2001年、私は1人で再び上京しました。恐怖心があったため、無事に帰ることが出来なかったのです。私の地元の駐北京事務所で7日間監禁された後、現地に戻され、滅多打ちにされてから再び15日間監禁されました。それ以後、現地の「610弁公室」が洗脳クラスを強化し、現地の多くの同修が迫害されました。ある同修は「保証書」を書かされ、またある同修は惑わされ邪な悟りに走ったのです。私は転向や迫害されるのを恐れていたため、最後の洗脳クラスに私の名が載っていると聞かされると、苦労して手に入った仕事も放棄して早々に家を離れ、各地をさまよう生活を始めました。

 自分は特技を持っていないため、他所での仕事は全国の多くの民工と同じように、汚く過酷な仕事しかなく、毎月生きられるだけの僅かな賃金しかもらえませんでした。あの時期は、本当に失望感によく襲われました。師父が説かれた「今あなたは最も幸せな宇宙生命であり、大法の学習者であり、天上の神まであなたのことを羨ましく思っているのに、自分が劣っていると感じさせるものでもあるのでしょうか」(『オーストラリア法会での説法』より)をよく噛み締め、法輪大法が宇宙の大法であり、宇宙のすべては大法が作り出したと考え直しました。

 私は宇宙の特性である「真・善・忍」に同化しようとしているので、大法を修煉すれば必ず汚く疲れる仕事に従事しなければならないという旧勢力の按配を完全に否定すべきだと悟りました。

 師父のご加護の下、正念を頼りに3カ月、必死に独学して、会計士の資格を取ることができました。高卒でしかも卒業証書も無くした私は、それ以後、汚い職場から綺麗な事務所に移りました。月給は2003年には1.000元だったのに、2005年になると、6倍の6.000元までにあがりました。これらのすべてが師父と大法を固く信じた結果です

 2005年以後、仕事は非常に順調でしたが、同修と連絡が取れないことに苦しんでいました。師父の新経文さえ手に入れることができないということは、自分が大法の修煉環境から離れたことを意味しています。心性が高くないと、着実に修煉し続けることが不可能だと、私は分かっていました。師父が『精進要旨』の「常人の心を放下して着実に修め続ける」の中で「大法の伝統を保って、大法の修煉の原則を維持して護り、着実に修め続けることは、一人一人の大法弟子に対する長期に渡る試練なのです」と言われ、または『転法輪』の中で「人間の生命は人間になるためのものではなく、返本帰真して、元に戻るためのものです」とも仰いました。しかし、私はまるで仕事のために生きているようで、自分がまだ大法弟子であるかと疑い始めました。

 暫く精神的な格闘の末、正法の進展に追いつき、三つのことをしっかりと行うため、給料が低くても構わず、苦労して手に入った仕事をきっぱりと手放し、故郷に戻りました。師父のご加護の下、私は家に帰った後、月収が4.000元の仕事を見つけることができました。今でも勤めています。

 故郷で働いた2年の間、邪悪の干渉や会社に退職させられそうな旧勢力の妨害にも遭いました。師父が『転法輪』の中で「あなたが真の修煉者であれば、われわれの法輪が守ってくれます。わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」と仰いました。そのたび、私は師父と法を固く信じて師父が按配してくださった道をしっかりと歩み、発正念もきちんとし、法を多く学び、何かがあるたび必ず内に向けて探し、できるだけ早い内に執着心を取り除き、徹底的に旧勢力の按配を否定してきました。

 故郷に戻った最初の頃、現地には年配の同修が割りと多く、真相を伝えることにおいては他所と比べると遅れていて、個人修煉と会話で真相を伝えることのみで止まっていました。それで、私は現地の2人の同修と相談し、自分達用の資料点を立ち上げました。着手した途端に資金難に陥りました。「修が己にありて、功が師にあり」を信じ、私達が衆生を救い済度する気持ちさえあれば、すべては師父のご加護の下にあると思いました。思った通りに資金難を乗り越え小さな資料点を立ち上げることができました。資料点は段々と現地の主な資料点になるまで成長しました。

 同時に、私達は集団学法を堅持し続け、段々と3人、そして7人と増えました。他の同修達も「比して学び 比して修す」、各自の学法グループを続々と作りました。

 資料点と学法グループがあれば、皆が自然と衆生を救い済度する方法を相談するようになり、正法の進展に追いつくことができました。同修達も始めの資料をわけてくれる人がいれば、数部わけて貰い、いなければ資料も欲しくないという有様から、積極的で計画的に資料を受け取るようになりました。この環境が出来上がるまでに、私は自分が大法の学習者から真の大法弟子に成り代わったと感じました。

 (続く)

 2010年5月12日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/30/222583.html

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