学法は心に入らないといけない 文/堅定
(明慧日本)以前学法するとき、常に学法の量を求めていて、とても速く読みました。すると本当に心に入っておらず、読んだ後、何を読んだのかを思い出せず、法理について悟ることができず、まるで猪八戒が高麗人参を食べながら、その味が分からないみたいでした。今日学法する時、私はとてもゆっくり読みました。師父の法の一文字、ワンセンテンス(一文)、ひいては符合も真面目に読みました。すると師父の法はすべて私の頭に入るようになり、法をもって普段の自分の言動を照らすことができました。
私は『転法輪』の「その心を捨てることができさえすれば、その物質自体は作用をなさないもので、真に人を妨げるのはほかでもないその心なのです」を読んだとき、私たちの心性が法の基準に達しておらず、旧勢力が病魔の形式で私たちを迫害して、私たちの肉体に正しくない状態が現れたとき、それを黙々と耐えることは自分にその心があるから発生したと悟りました。もし本当にその心、良くない考えを取り除くことができ、魔難を前にして修煉の心が動ぜず、師父の話を聞き、法の基準に従って行えば、その正しくない人心を修めることができ、その良くない物質も大法の正の場の中で解体され、心性も向上でき、大法に同化し、その人の神の一面も直ちに元気になるのではないでしょうか?
こういうふうに勉強すると、学法のスピードは落ちましたが、学法の効果はとても良くなりました。本当に師父の『洪吟』「実修」の中で説かれた「法を学びて法を得る 比して学び比して修す 事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」のようによい効果を収めることができました。
2010年5月17日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/5/12/223415.html)
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