迫害を認めれば迫害に反対できない
(明慧日本)労働教養所などで、ある同修はスタンガンで長時間にわたり電撃されて精神が異常になり、またある同修は酷刑により障害者となり、迫害によって命を失う同修までいるなどの事実があります。これらを見ると大法を修煉する志を挫けようと、邪悪が手段を選ばなくなってきていると思いました。
多くの同修は、迫害が加えられたとき不屈の精神を持って大法を堅持し続けると、師父が弟子に代わって苦痛を耐えて下さっていたことを体験し、師父の洪大な慈悲も感じたと言います。
ここを借りて、私は別の角度からこの件に関する認識を述べたいと思います。
1999年から今日まで、大法弟子が真相を伝え、迫害に反対し、はや11年が過ぎようとしています。世の中の情勢も根本から変化をおこしているのに、何故このような血まみれで惨烈な酷刑や侮辱などが、いまだに多くの地区で発生し続いているのでしょうか?
師父がずっと前、このように説かれました。「大法弟子としては、邪悪な旧勢力が按配した一切を全面的に否定します」(『精進要旨』「大法は堅固にして破壊不可能である」)
私達の言動及び考え方が迫害を徹底的で全面的に否定しましたか? と私達は自分に問いみる必要があると思います。多くの場合は全面的に迫害を反対するのではなく、ある程度で承認し受け入れながら迫害を反対したのではないでしょうか?
「4・25、善には善なりの尊厳がある」という同修の文章には「善には善なりの尊厳があります。徳が高く尊敬されるべき人が、また苦難や中傷に対し忍耐できるが人が、勝手きままに殴られることなど許されません。善は悪人に恐怖を生じさせる善の尊厳を持っているのです」と書いてあります。
法を実証している中、大法弟子は人々に修煉者としての不屈な忍耐力・固い信念・強い決心を見せるだけではなく、それより、大法を修煉する生命としての神聖な純潔さ・威徳・大法の尊さ・素晴らしさ・威厳などを、表すべきです。即ち、私達は心の中で大法と大法弟子に正しい位置をつけてあげるべきです。
実践しながら「真・善・忍」に同化いていく生命で、神の道を歩んでいる大法の修煉者としての私達を、救われる立場にいる人間には尊敬を抱くしかなく、迫害しようという一念を生じるべきではありません。 大法弟子の金鋼不滅な身体に迫害を加えることが許されるでしょうか? 大法弟子による、救い済度を待っている命が大法弟子に酷刑を施すことが許されるのでしょうか? 誰にも大法弟子を迫害する資格がなく、誰かがやれば、その人が罪を起こしたこととなります。ですから、大法弟子への迫害は発生すべきではなく、師父が私達の代わりに苦を耐えることは尚更いけないことを、私達は明確に認識すべきだと思います。
私達は衆生を救い済度しています。最も正しいことをしています。如何なる環境においても正々堂々と大法弟子としてやるべきことをやれば、すべては師父のご加護の下にあると思います。肝心なのは、私達が自ら正しい一念を発すべきです。もし、私達の一念が正しくなければ、師父がどうして助けることができるでしょうか? 私達は真の正念を持てこそ、師父が私達を助けることができ、「弟子が正念足りれば 師は回天の力あり」(『洪吟』「師徒の恩」)の通りになります。
自分が神聖で犯されてはならないと思えば、他人も容易くあなたを犯すことができなくなります。あなた自分が天を頂き独り尊く輝かしき神佛を意識すると、別空間の邪悪が迫害の念が生じることができるでしょうか? 邪悪に操らないと、大法弟子の純正で慈悲な場にいる人間の悪人どもは、狂うことがまたできるでしょうか? 結局彼らは転化され、もしくは逃げ去っていく運命しかないのです。
師父が「相が心から生じる」の法を説かれました。私達の生じた念が正しければ、この場の主導権が私達に握られているのです。大法弟子は舞台の主役であることが皆さんは良くご存知と思います。人に真相を伝えるとき、もし相手が師父のお名前を呼び捨てにする場合、私はいつも「私と話すとき、私の師父のお名前を呼び捨てにしないでください! あなたの師父と呼んでください」と話し、相手が怒ったことが無かった代わりに、私達の師父への尊敬を感じ、ついに感心してしまうのです。
あるとき、近所のある同修が私の家に来て、会話の最中に、ドアをノックする音がして、私はドアを開けると、狭い廊下に7,8人が立っていました。「あなたは誰々ですね」と聞かれ、私は思わず「そうです」と答え、すぐ、この一問一答を尋問されているように感じ、自分が自分を被疑者の立場に置いたのではないかと思いました。そこで、私は目で周りを見回して、「あなた達は何をやっているのですか?」と先に問いかけると、彼らの態度がすぐ和らげになり、「私達は、部屋の中に見知らぬ人が入っていないかを見回っているのです」と言葉を詰まらせながら答えました。「これは私の家で、見知らぬ人を入れるわけが無いじゃありませんか」と正々堂々と答え、彼らは仕方なく立ち去りました。
後に同修が「私は隣近所で、知られても大丈夫だから、中に入れてあげて気が済むまで見せたらいいです」というのですが、私は「見せるか見せないかの問題ではなく、彼らの理不尽な要求を拒否しただけです。彼らにやり放題させません。私の家は私に権限があり、私を訪問した人が見知らぬ人ではありません」と説明しました。
私達は自分を被疑者の立場に置かなければ、他人もあなたを取り調べる勇気も無くなるのです。
旧勢力は「大法弟子が背負った責任が大きく、将来の果位が高い」という口実を作ったことを、法を学ぶことを通して、私達はすでに分かりました。「旧勢力は中共邪党を作り出し、迫害の中でまだ修煉するかどうかを見ており、乗り越えられればあなたを認めますが、そうでなければ、あなたがだめだということになります」(『マンハッタン説法』)
旧勢力がこの迫害を作り出して、大法弟子に試練を与えようとしているのですが、師父に認められなく、私達も邪悪な迫害を乗り越えるのを大法弟子の修煉が合格したかどうかの基準としてはいけません。「ほこりを拭き去るように邪悪を根絶する」(『全世界の大法弟子、中国大陸の大法弟子へ中秋節のご挨拶』)のように、一念一動から正念正行して全面的にこの迫害を否定すべきです。
2010年5月17日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/5/3/222750.html)
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