内に向かって探して はじめて向上できる
文/海外の大法弟子
(明慧日本)今回、南オーストラリアに行って2週間、神韻公演のチケット販売をしました。多くの収穫と感動を文章にして同修と交流したいと思います。
今回南部へ行った時は、まさに自分が修煉の道で徘徊し、前に進むことができず、一つのプロジェクトをしようとしても自信がないと感じた時でした。南部で神韻公演を広めるときは、毎日法を学び、煉功し、チケットを販売することで緊張し、また充実していました。その間、連続2日、西部の数人の修煉者達と交流をしました。その後、朝の煉功が終わった時、ある修煉者が私に「昨日の夜、あなたの話を聞きましたが、あなたは外に向かって探しており、内に向かって探していませんね。あなたは他人が正しいかどうかに構わず、自分にどんな執着があるのか探してください」と言いました。私は自分を弁解しましたが、ちょうど発正念の時間になりました。発正念が終わって、私は同修に「分かりました。私は弁解せず、あなたの言う通りにします」と言いました。その後、私達は出かけたので、交流を続けることはできませんでした。
ショッピングセンターに行ってチケットを販売する時、まだ早かったので、行き来する人は多くありませんでした。私はどの方面で向上すべきかと考えました。数日前の夜、毎日、販売したチケットの数が少ないため、宿泊先に帰って、私は文句を言いました。他の同修がすぐ続けて「それは自分が向上したかどうかをみないと」と言いました。彼が何気なく話した様子を見ると、私に言っている様子ではありませんでした。私はこの話を師父の私に対する教えだと考えました。翌日チケットを販売する時、私は自分の頭の中に時々よくない考えが出てくると感じ、極力それを抑え、取り除きました。悪い考えがますます少なくなり、完全になくなった時、自分の精神状態と販売店の環境は穏やかになりました。
私は、このわずかな進歩が私の望んでいた大きな向上だと分かりました。この時、私はかつての冷ややかで、利己的な一面を思い出しました。その冷ややかで、その利己的なものは、とても深く隠れており、その現れも不明瞭です。うわべから見れば、私は性格が温和な部類の人間です。しかし、時々現れる嫉妬心、闘争心、不満、および人と距離を置く、事をする時に全力投球しないなどは、冷ややかで、利己的な私の根強い性格で、克服できていないと感じます。甚だしきに至ってはそれが私を完全に法の中に溶け込むことを阻止していると感じるときもあります。1、2年前、私はそれを意識しました。特に数カ月前に家内と小さな事で口論し、けんかをしたことは、もっともその存在を強く感じさせ、心に深く突き刺さっています。
私は突然認識しました。そのよくないものが私の個性で、よくないと思っていることは、それを私だと承認しており、それは私の一部ではないでしょうか? 実はそれはとても厚い殻に過ぎず、私の先天的な本性を包んでいるだけです。しばらくしたら、私の脳の中に突然「それは私ではありません」と言う一念が浮かびました。この一念が出た瞬間、私は全身が震え、エネルギーが全身を駆け抜け、涙がとめどなく出てきました。私は師父が慈悲深く、私のそのよくない物質をきれいに片づけてくださったと分かりました。今のところ、私は確かに以前より寛容さと落ち着きが出たことを体験しました。
翌日早起きして煉功した時、両足が依然として数日前と同じようにこわばって、足を組むことができませんでした。私は引き続き内に向かって探し、他の執着心を掘り出そうと思いました。チケット販売をする時、往来する人が少ない時、私は思わず西部に来て2年の間に起きた事を思い出しました。私はずっと私達の西部の弟子全体の修煉状態がよくなく、各方面で他の地区と大きな差があると思いました。今年は神韻公演が全世界を巡回公演して4年目になりますが、今なお神韻公演は西部に来たことがありません。現状を変えようとしたときもありましたが、結局はそれもできず、気落ちしました。まるであの同修が指摘したように、対立の中で、私はいつも外に向かって探し、自分が向上できなかったのに、いつも人為的な方法で修煉環境を変えようとしたため、結局は通用しませんでした。
さらに考えて見ると、一体どんな人心がその中に隠れているのでしょうか? まるで一つの明かりが見えたかのように、突然私はそれが依頼心で、困難と挑戦に直面する勇気が足りないと認識しました。私ができると予想したことは、いずれも全力を尽くしたのでうまくできたのですが、しかし難度が高く、自信がない事は、責任を負いたくありませんでした。この時、私は心の中で叫びました。「私はそのプロジェクトをしっかり行います!」 瞬間、全身が震え、熱い血が全身に流れ、涙が出てきました。これらの変化は前日とそっくりでした。心の中は師父に対する言葉にできない感謝でいっぱいでした。
過去2年間を振りかえって見ると、師父は同修の口を借りて私に教えられました。内に向かって探し、多くの執着心を取り除きましたが、依然として多くの場合、悟ることができませんでした。大きな原因は、事の表面上の良し悪しに執着し、この事を通してなにか向上するところはないかと自分を反省したくありませんでした。少しも隠すことなく内に向かって探すことができず、師父の慈悲深い済度に背きました。
「師父」という言葉は私にとってもっと深い内涵があります。南部でチケット販売をした最後の数日と、西部に帰って来たこの数日間、何度も頭の中で「師父」の言葉が浮かび出すと、私は耐えられず感激の涙が流れ、十数年修煉しましたが、初めてこのように深く法の中に溶け込んだ感じを受けました。以前私がしかたがないと感じたのは、実はその時、私は師父を忘れていたのです。今後、私は常に師父と大法を最優先に考えます。これは私が向上できる、本当に師父に従って法を正すことができる唯一の保証なのです。
南部でのある日の明け方、ある東部の修煉者は私が西部から来たことを知って、こう言いました。「西部の人々はあなた達が頼りです」 私達は現在よくやっていないから、私は返す言葉がありませんでした。しかし、私は今信じています。師父はいつも私達の西部の弟子を加護してくださっており、師父は私達に期待しておられます。私達西部の弟子は法に基づいて、精進して着実に修煉します。中、西部の修煉者、補導站と修煉者の間、補導站の修煉者の間の間隔を取り除いて、私達は正法の進展について行き、師父の大きな期待に背きません。
2010年5月21日
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2010/5/18/223902.html )
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