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修煉の形式を正しく理解し 修煉の環境を大切にする

——「大道無形の道をしっかりと歩む」を読んだ感想


文/中国の大法弟子 軽舟

(明慧日本)最近、明慧の編集部から「大道無形の道をしっかり歩み続けよう」という文章が新しく発表されました。これはとてもちょうどよい時期に発表したと私は思います。修煉の形式や、目の前の修煉の環境を大切にすることへの正しい理解に対して、とても重要であると思います。

 師父は私たちを導いてくださっているのは形のない修煉の道です。このような形式だからこそ宇宙の大法にふさわしいのです。そうして初めて、大法弟子が強大な位置に着くことが成し遂げられ、衆生を救えるのです。師父はかつて私たちに次のようにおっしゃいました。「いかなることにおいても、極端に走らないでください。理性的に、冷静に行なってください。それはすなわち、大法弟子の威徳です。常人社会という形式の修煉の中で安定した状態を保つことができる人は、この修煉形式で真に最もよく行なっている人です。もし、この形式の中で、この形式を超えた現れ、この形式に合わない現れがあれば、その人はあまりよく行なっていないかもしれません。大法弟子の修煉がこのような形式である以上、この形式は大法弟子を造成することができ、将来の巨大な果位を成就することができます。この形式から離れて、或いはこの形式に符合していなければ、あなたの修煉に障碍をもたらすことになります。実はそれはすべて執着によるものです」(米国首都での説法)

 大法弟子として、もっとよく修煉し、法を実証することや衆生を救う中で、もっと値からを大きく発揮できるようにと私たち一人一人は考えていると思います。しかし皆は、どのようにすればよく修煉できたか、どうすれば私たちの実力を発揮できたのかを考えたことがあるでしょうか? 私自身でいえば、長い間外でチラシを配って、大きな範囲で何かをやることこそがよく修煉できたと、大法弟子が法を実証していることは同じだと思っていました。

 自分を表現しようとは思いませんでしたが、無意識にこの形式だけが大法弟子がいる意味を表しているのだと思っていて、このような形のあるものこそが修煉の大部分の内容であると思ってしまいました。

 このようなあやふやな言葉で当時の私の修煉状態を表すことは、少しも間違えていません。そして、学法と発正念を粗末にしてしまい、学法するとき心が静かになれず、発正念での時間と効果に大きな損失をもららしてしまいました。「自分をしっかり修めること、そしてより緻密で計画的に、そして理知を持って真相を伝え、衆生を救い済度すること 」(「大道無形の道をしっかり歩み続けよう」 )その結果は、考えなくとも分かるでしょう。

 私の当時の修煉環境はとても良いものでした。職場での地位も高く、高収入で、常人社会にも大きな影響を与え、そして、仕事で何度も転勤があり、邪悪もどうやら私を忘れているようでした。当時、私は毎日大量の法を実証することや衆生を救うことをすることができました。しかし、自分は焦る性格で、場を考えずに真相を伝え、相手のことも考えないなどのことから邪悪に隙を突かれてしまい、また正念で旧勢力を否定しなかったことから、良い修煉の環境をなくしてしまい、長い時間をかけてやっと戻ってくることができたのです。

 損失はとても酷いもので、印象深く教訓に残っています。一つはしっかりと自分を修煉しなかったことと、もう一つは修煉の形式を理解できず、師父がくださった修煉の環境を大切にしなかったことでした。修煉の形式に対する理解の間違いと、修煉の環境を大切にしなかったことで、他の誰かや他の地域にも影響するのでしょうか?

 師父はかつて次のようにおっしゃいました。「問題が起こらなかったこと自体は邪悪にとって最大の打撃になります。(明慧ネット十周年法会での説法 )」刑務所や留置場で迫害されている同修と比べれば、大部分の大法弟子の修煉環境はとても楽なはずです。これは師父と大法が私たちのために作り出されたのです。だから、私たちは必ず自分の修煉の環境を大切にしなければなりません。特に、最後になればなるほど私たちに対する要求も高くなります。自分が理性的ではなかったためにこの環境を失うことはいけません。これは自分に対しても、衆生に対しても無責任です。

 以前、明慧ネットで同修の文章を見ました。「私は今、何も怖くないようです。名利を失うことにも恐れなくなり、生命を失うことにも恐れなくなりました。しかし、心のどこかでまだ恐れているところがあります。それは修煉の環境を失うことです」実際、このような状況の同修はたくさんいます。そのとき私はこの問題に対してはっきりしていませんでしたが、今は分かりました。私たちは修煉の環境を失うことを恐れるのではなく、正しい修煉の環境を失ってはいけないのです。

 修煉の形式を認識することは、私たちがこのような形式の中で修煉しなければならないということであり、そして、このような形式の中で衆生を救うのです。修煉の環境を大切にすることは失うことを恐れることではありません。この環境を利用して法を実証し、自分自身の使命を達成させるためなのです。

 もちろん、もし私たちが本来の修煉環境を失ったとしても悲しむ必要はありません、立ち直ればいいだけです。新しい環境ですべきことをし、同じように師父の良い弟子たちなのです。

 以上の文章を書き出したのは、同修たちへの呼びかけと、自分ができなかったことへの償いです。必ずしも正しいわけではないので、慈悲なる訂正をよろしくお願いします。

 2010年5月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/5/1/222630.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/5/15/117009.html

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