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人心を放下し 法の中に溶け込む(一)


文/中国の大法弟子

(明慧日本)内に向けて探すことは修煉の宝です。人心を真に放下することができれば、法の中に溶け込めるのです。常人の執着心を抱いて離そうとしなければ、自分を修煉の道で迷わせるのです。執着は私を修煉の道で挫折させましたが、執着心を放下することで、私は再び修煉の道を歩み始めることができました。以下はその体得です。

  一、修煉を始める

  私は98年3月に修煉を始めた古い修煉者ですが、根本的な執着心を放下しなかったため、修煉の途中で長い間挫折しました。教訓は深刻でした。修煉を始める前、私の家庭は同年齢の中でよい生活環境に恵まれていました。父は官僚なので、我が家は加工工場を経営し、社会における地位が高かったのです。私は自然に他人より一段上の人間だと思うようになりました。しかし、後になって両親は離婚し、父は現在の変異した社会の中で、他の男性と、ある女性を奪い合い、殴り合いのとき不注意で相手の男性を死亡させたのです。そのときから家庭の状況は一変し、父を守るため、すべての財産を処分しました。財産のおかげで父は死刑を免れ、20年の懲役刑で済みました。しかし我が家は一文なしになりました。

  我が家の生活環境がこのように急変したことで、私が受けたショックははかり知れませんでした。外出するときは、人にうしろ指を差され、嘲笑されるのを恐れていました。ちょうどこのころ、従姉が母に、健康づくりにとてもよい法輪功という気功の講習会が開かれるので、参加したらどうかと勧めました。健康状態のよくない母から、講習会に一緒に行こうといわれましたので、その日から私と母は修煉の道を歩み始めました。

  二、教訓

  修煉を始めて、私と母は精進していきました。母は健康を取り戻し、我が家に学法グループができました。同修と一緒に学法をし、煉功をし、外へ法を広めに行きました。私はグループの協調人となりました。しかし、このような平和な修煉時期は長く続きませんでした。1999年に法輪功は共産党に迫害され始め、私は修煉時間が短かったことと、法をしっかりと学んでいなかったことで、大法に対して理性的に認識できなかったのです。人心を抱いて、円満成就の目的をもって北京へ陳情に行きました。結果として拘束され当地の留置場に収容されました。私が大法を修煉し始めたころは、根本的な執着心を放下しなかったため、常人の中で失った名利や情を、大法の中で得られると思ったのです。私は自由や常人のすべてを失うことを恐れ、修煉しない「誓約書」に署名したのです。師父は『海外の電話会議における師父の説法』の中で「大法弟子は如何なる状況のもとでも、たとえ迫害を暴露するためでも、絶対邪悪に転化してはいけません」と言われましたが、私が署名したことにより、当地に悪影響を与え、教訓は深刻だったのです。

  私は釈放された後、再び迫害されることを恐れ、他地区でアルバイトをしました。そして気がつけば4年が経ち、この4年の漂流生活の中でも、大法の修煉は止めようとしませんでしたが、しかし常人に染められていきました。慈悲な師父は、私にはまだ修煉したい心があることを見て、再び私に修煉の機会を与えてくださいました。修煉者の叔父が会いに来てくれたとき、師父の説法がすべて入力された電子本を持ってきてくれました。私は渇いたように師父の説法を読み、流れる涙は頬を濡らしていきました。このようにして私は再び修煉の道に戻ったのです。

  私は他地区でのアルバイトを止め、地元に戻りました。私は当地の同修の熱心な助けにより迅速に精進していきました。自分の根本的な執着心を認識でき、厳正な「声明文」を発表して、グループ学法にも参加し始めました。

  三、法を実証する

  2004年のころ、迫害はとても厳しいときでした。法を実証する資料が少なく、自分にはやる気があり、独身でもあったので、協調人は私に資料作りの仕事を与えてくれました。まず、DVDの焼き増しや資料のコピーをしました。これが後に家庭資料拠点の設立に役立ちました。そのとき私は20代になったばかりで、家庭を持ちたい思いがあり、親戚の紹介で若い女性と付き合い始め(今の妻)、そのため資料作りに専念できず、しかも資料作りを辞めてしまいましたが、時には同修と真相を伝える横断幕を掛けに行き、真相資料を貼りに行きました。

 (続く)

  2010年5月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/5/16/223745.html

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