■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/06/12/mh130897.html 



名利に動かされなければ心の奥底まで穏やかになる

文/中国の大法弟子

(明慧日本)私の姑は一昨年生涯を終えました。享年93歳の大往生でした。葬議を終えて3日目、夫が勤める会社の友人から一本の電話がありました。まず、お悔やみを言われた後、「奥さん、このような一大事なのに、身内の喧嘩もなく、穏やかに済まされたことは、容易なことではないですね」と話されました。私は「そうですね、だから法輪大法は素晴らしいのです」と言いました。彼は「そう思います、法輪大法は本当に素晴らしいです!」と認めてくださいました。

  私の教え子は官庁に勤めています。わざわざ我が家に来てくれて、励ましてくれました。教え子は「先生は崇高すぎます!」と励まされ、私は「すべてが法輪大法の威力によるものですよ」というと、教え子は「おっしゃるとおりです、おっしゃるとおりです・・・」と続けました。

  夫は葬議を終えて初出勤した日に、同僚は親指を立てて「あなたの奥さんは、本当に度量のある素晴らし方ですね!」と羨ましそうに話したそうです。親戚たちも法輪大法が素晴らしいといいました。なぜ親戚や友人らは法輪大法が素晴らしいと認めたのでしょうか? それは葬儀のとき、私は終始煉功者として物事を考え、身内と争わず、いつも他人のことを先に考え、身内のみなが快く、睦まじく過ごせるように環境を作ったからです。

  一、古い慣習にとらわれず、膠着した局面を打開する

  夫の2番目の兄には2人の息子がいます。姑は不動産のすべてを兄の2人の息子に譲るという遺言を残していました。身内のみなは、姑の葬儀はそこでやるべきだといい始めました。しかし、兄夫婦は早くから私の家で葬儀をすべきだと決めていました。その理由は、家が広いからだそうです。(舅は私たちが老後の面倒を見ていて、葬儀は我が家で行いました)。私たちは反対しませんでした。ただ一つ条件がありました。それは息のあるうちに我が家に来させること、死後ではだめですと言いました(古い慣習から言うと、死人は家から外へ送り出すべきで、家の中に入れてはならない)。姑の病状が思わしくなくなり、私は兄夫婦に姑を迎えに行きますといいましたが、義姉は大丈夫だから、来なくていいと断わりました。この日の夜遅く、義姉から電話がかかり、姑が危篤状態だと告げられました。私たちは20分後、兄の家に到着しましたが、姑はすでに経帷子を着ていて、私たちの迎えを待っていました。

  その場の雰囲気は堅く、夫は話していましたが、駆けつけた親戚や兄夫婦は黙り込んで何も話さず、膠着した状態が続きました。そこで私は早速、自分の内に向けて探しました。私は大法弟子です。常人の理で自分をはかってはなりません。常人の観念を突き破り、常人のように古い慣習にとらわれてはなりません。私たちがやろうとしているすべてのことは素晴らしいものであると確信しました。そして、私は夫に「私の言うことを聞いてください。私たちは古い慣習にとらわれず、お母さんはどこで葬儀をしても問題ないと思います」と私の考えを伝え、夫は同意してくれました。

  葬儀屋は「常識から言えば、遺体は移動しないで、息を引き取った家で葬儀を行うのが常識だといわれています」と教えてくれました。兄は「葬儀屋の言うとおりです。我が家で葬儀を行いましょう」と話しました。この結果について、私ははっきり分かるのですが、膠着した状況を打開することができました。自分が常人の観念を放棄したことで、師父のご加持の下でこの膠着した場面を打開することができました。

  二、全てのことにおいて内に向けて探し、大法に溶け合う

  葬儀の2日後、家族や親戚が頭に巻きつける喪服(翻訳者注:長い布を切り、頭に巻きつけ残り部分は背中に垂らし、哀悼の意を表す、そして布の幅や色で死者との関係が分かるようにする)の製作を手伝ってくれた近所の2人が、「おばさん、あなたの家族とあなた方の親戚には白い布しか渡しておらず、この家の人および親戚には、帽子付きのものを渡したのです」というのです。

  私はこの話を聞いて頭に血が上り、爆発寸前になり、「義姉はなんと差別するようなことをするのか? 彼女が私に姑の遺体に線香をあげるように指示し、自分は喪服を作るといったではないか? なぜみなを平等にしないのか?」と不満に思いました。このことがもし我が家で起きれば、回りから見下され、トラブルが起きたでしょう。私は文句を言おうとしましたが、考えてみると、人間には間違いがあるはずで、義姉は故意にしたのではなく、間違って渡したのではないかと思いました。念を正しく持ったとき、瞬時に魔性が取り除かれたのです。

  当地の慣習によれば、姑の遺骨は、舅と同じ墓に入らなければなりません。火葬を済ませ、私たちは舅の墓がある田舎へ向かいました。舅の墓は、綿畑の真ん中にあり、私は率先して墓の周りにある綿の茎を抜き、墓の周りを綺麗にしました。紙を燃やすときに火事にならなくて済むからです。私の行動を見た親戚の人らも手伝い始め、墓の回りは短時間で綺麗になりました。私は綿の茎を抜いているとき、自分は大法弟子であり、すべてのことにおいては他人のことを先に考えなければなりません。農民たちは、毎日土に向かい、熱い太陽に照らされ、容易いものではありません。私は地元の親戚に地主さんへ伝言をお願いしました。お礼を伝えるとともに、弁償が必要であれば遠慮なく申し出てくださいとお願いしました。

  すべての予定を済ませて、私たちはバスに乗りました。私は最後にバスに乗ったのですが、葬儀屋は「さすがわれらの教師だ!」とみなに聞こえるように大きな声で話しました。私は「私は法輪大法の弟子です」と話すと、葬儀屋は「そうでしたか、真・善・忍を修煉している人が、私と同じアパートに住んでいます。大法弟子は皆さん善い人です」と話されました。

  三、名利に動かされなければ、心の底まで穏やかになる

  葬儀費用は約1万元かかりました。もし兄弟で均等に負担すれば、1人が5千元足らずとなります。しかし、長男の兄は2千元しか出さず、長女の姉は自ら3千2百元を出してくれました。残りの5千元余りは、2番目の義姉がどうしても出したくないというのです。私は、ためらわず残りの5千元余りを払いました。私は「失わなければ、得られず」という法理を知っていて、利益の上で常人と争ってはならず、大法弟子の風貌を顕さなければならないと思いました。

  私は葬儀に出席してくださった親戚を送り出し、再び2番目の義姉の家に行きました。義姉から、2枚の白布を渡され、「息子が結婚するときに使ってほしい」といいました。その白い布を見て、思い出したことがありました。両親が70歳のころ、夫は紡織工場で大量の白い布を購入し、両親の葬儀に使う予定でした。しかし、義姉は、私たちに相談せずに、勝手に使ったのです。私は不満不平がつのり始め、怒り出しそうになりました、心の中で思いました。「私は、息子の嫁を貰うとき、自分で負担するカバーを買います。あなたのものがいるでしょうか?」 しかしこのような一念は法を師とする一念ではなく、これは嫉妬心と利益を求める心です。このような不潔な心では、頂くわけにはいかないと思い、義姉に「この布を保管しておいてください、必要なときに受け取りにいきます」と返事し、義姉は「そうだね、そうしましょう」と何の反感もなかったのです。このように争いを始めようとした状況は、うちに向けて探したことで、雲散霧消しました。

  葬儀を終えてから10日経ち、夫は「2番目の兄夫婦から何の連絡もないが、建築した家のことについてなにも言わないね。兄はマイホームを建築するというから、親父は購入予定のマンションを諦め、その金で兄は家を建築したが、そうでなければ、今頃そのマンションを売れば15万元の利益が出るよ。兄弟で分けても、うちは5万元をもらえるのに、すべて兄が悪い! 兄に会ってその話をして来る」というのです。

  夫の話を聞いて、今まで起きたすべてのことは、私の利益に対する執着心と嫉妬心を取り除くためだったと悟りました。今夫が話したことは、やはり肝心なときに、心の奥底に潜んでいた利益に対する執着心に触れなければなりません。私は夫の言葉に動かされませんでした。落ち着いて穏やかに、「あなた、人生の中で何を得られるかは、定められており、今までマイホームがなくでも、ちゃんと一人前になったではありませんか? 私たちは結婚するのが遅かったため、経済状況はどの兄弟よりもよいではありませんか? 親として経済的に恵まれない子供を援助するのは当たり前ではありませんか? 兄さんに2人の息子がいて、その家を兄さんの息子2人にあげなければ、だれにあげるのですか? 長男の嫁がこの話を待っているのに、あなたが話すとトラブルの元になるのではありませんか? しかも兄さんの2人の息子は、私たちに対して実の親のように接しているではありませんか? 実の子供とどこに違いがあるでしょうか?」 というと、夫は私の話を聞いて納得しました。

  この過程を思い返しますと、何時も目の前に発生したトラブルに出遭ったとき、自分は法輪大法の弟子であること、高いレベルの基準で対処しなければならないと思い、内に向けて探したことで、何時も平静を取り戻すことができました。言うまでもなく、師父の慈悲なるご加護がなければ、私の魔性が強くなり、邪悪に利用され、相手と争い、良くない結果を招いてしまったでしょう。

  私がこれらのことを書き出したのは、自己を顕示するのではなく、世の人々に大法の素晴らしさが、私たちを穏やかな気持ちにさせ、生きる希望を与えてくださったからです。そして、人々を善い人に、さらに善い人にさせることができて、真の大法弟子にさせることができるのです!

  2010年6月12日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/5/27/224303.html

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