同修との交流で口を修めることについて
文/中国の大法弟子
(明慧日本)「マイナス面の交流をしないでください」という同修の交流文を読み、とても感慨深かったのです。確かに、現在の同修との間の交流では、本当にこのことを重視しなければなりません。
マイナス面の交流をしないと言うのは、表面の形式だけではなく、いかに口を修め、いかに心を修めるかということだと思います。
『転法輪』の中でも「口を修める」について説法されています。同修の間に交流は必要ですが、私たちの交流は本当に法に従って自分を律していますか? 一部の人は時間を無駄な交流に費やして、例えば「だれだれの状態があまりよくない、難関を乗り越えていない、執着心を抱えている」などを話しており、あまり意味がありません。『オーストラリア学習者への説法』の中でも似たような問題について説法されているので、同修の皆さんによく見ることをお勧めします。
私が見る限り、一部の同修はもう癖になり、それは良くない事だとも認識していません。ある日、ある同修とこの問題について交流してから、人の陰口をしない方がよいと言ったものの、一分も経たないうちに再びだれだれの状態がよくないなどを口にしました。幸いすぐに気付いて、中止しました。
口を修めるのはとても重要です。修煉者にとって、内に向かって探し、自分を修めるべきです。他の同修の話をする時になぜ自分のことをよく見ないのでしょうか? なぜ同修のことを聞いたらすぐに、自分も同じことをしていないか、自分も修めなければならないと思わないのでしょうか?
『ヨーロッパ法会へ』の中で師父は「一部の学習者は修煉において、いつも外に向けて探しており、外に向けて求めており、外に向けて見ており、誰それが自分に優しくなかったとか、誰それの言ったことが気に障ったとか、誰それが非常に常人的だとか、誰それがいつも自分とトラブルを起こしているとか、自分の意見がいつも採用されないとか、それを理由に大法弟子が法を実証することをまったくしなくなり、ひいては怒った勢いで修煉をやめてしまいました。あなたは本当に誰のために修煉しているのかを分からないのですか?」とおっしゃいました。
師父の法は、すべての大法弟子のために説いておられるので、皆が自分を照らし合わせるべきです。同修について話した時に、自分も修煉者であり、どのように考え、いかに正しい念、正しい行いをするかを思わなければなりません。
そして、同修の不足を見たら善意を持って指摘してあげて、直接交流するべきです。たとえ、すぐに同修が受け入れられず、悟っていなくても、私たちは同修の間で人の欠点を話すのは良くありません。さもなければ、その同修の空間場に良くない要素を与えて、隔てを作るのに等しいのです。
個人的に、同修の間の交流は、自分のことを探して、いかに衆生を済度するか、いかに協力し合うなどを交流するべきです。その他、もし確かに交流の必要があるならば単独ですればよく、あまり意味のない交流は避けた方がよいと思います。それは時間を無駄にして、三つのことをするのにも影響を与えているからです。
個人的な認識ですが、ご指摘お願いします。
2010年6月21日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/6/9/225095.html)
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/6/19/117929.html)
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