日本明慧
■印刷版   

二言三言:全体の漏れと個人の漏れ


文/中国本土の大法弟子

(明慧日本)以前ある地区では、何か問題が起こると、同修達はよく「全体的に漏れがある」と言っていましたが、私はそう思っていませんでした。なぜならこれは当事者本人の責任なのに、なぜ全体にまで責任が広がるのでしょうか? 私まで問題があるのかと不思議に感じ、不平に思いました。 

 学法や交流を通じて、確かに問題が発生することはその地区全体に関係があり、即ち全体的に漏れがあるのだと認識しました。しかし全体の漏れを探すとき、いつも人に向けて探したのです。実は自分はこの全体の一部であり、皆自分の問題について探さなければなりません。全体に漏れがあると言う言葉を借りて自分を庇っています。問題が出る度に全体に漏れがあると言い、たとえ自分に向けて探そうとしてもなかなかできず、真に向上していません。

 今の私は、ことことにおいて理解することができました。自分は全体の一粒子であり、問題があったらまず自分のことを、内に向けて探すべきで、ただ全体に漏れがあるとして自分を排除してはなりません。かえって全体に漏れがあると言うより、自分に漏れがあると言わなければなりません。例えば同修が警察に連行されたとき、まず同修に何かの漏れがあると指摘するのではなくて、自分はこの問題についてどこかに漏れがあるのではないかと思わなければなりません。

  同修を崇拝し、同修を褒めすぎてはいなかったでしょうか? 自分のどこかが不足したために、同修にプレッシャーをかけたのではないかなどと、いろいろ考えなければなりません。もし私たちが皆自分の漏れを探すことができたならば、全体的に向上することができ、法の力も大きくなり邪悪は自ら消えていきます。普段我々が内に向けて探し、師父が要求されることに従っていれば、あとあと挽回するよりずっとよいのです。私たちが一つの全体になれば邪悪が迫害しようとしてもできませんし、衆生を済度することがもっと良くできるのです。

 個人的な悟りです。不足の点をご指摘下さい。

  2010年6月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/6/18/225514.html

■関連文章
同修間の情に気をつけよう
あらゆる事が私達をより一層成熟させる
慈悲を持って問題を解決できるようになる
魔難に陥った同修に慈悲をもって接する(四)
正念で旧勢力を否定した体験
善の念で同修の不足に対応することは、一丸となるために肝要なこと
同修のことを陰で言わない
あなたが変われば、周りの環境も変わる
同修の間に起きる問題の対処について
経文『すぐに目覚めよ』を学んで会得したこと