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安全を重視しない裏の人心


文/中国の大法弟子

(明慧日本)偶然に『明慧週刊』の文章を読んだとき、安全問題について書かれている内容を見て、私自身がこの表面空間の安全問題を重視していないことがよく分かりました。

 以前着実に修めていなかった時期に、根本的な執着をなくしておらず、たくさんの大法のことをしても人心を抱えていたので、理知が欠けていました。それから迫害され、修煉の道を遠回りしました。最近数年来師父のご慈悲の済度と包容の下で私は真に執着を無くして、徐々に修煉の根本が分かるようになりました。

 極端に走る性格について私はずっと修めて無くそうとしましたが、なかなか完全にできていません。今は私がずっと両端の間に揺れていると分かりました。恐怖心が強くて正念がなくなったり、恐怖心を無くしていないのに大法のことをしたくて強烈な目的を抱えて人間のいわゆる勇気をもって真相を伝えるなどをしたりしています。この状態で大法のことをやる時に猛進して、表面空間の安全を重視せず自分は「正念が強くて恐れることがない」という心理が膨張してしまいます。このような心は『転法輪』の中に師父が話されたように、大法の本を持って道路を渡って車を怖がらない人と一緒です。

 「神が最も見下しているのは、自分を見つけられず、何をやっても正念が足りない生命です。自分を見つけることができない生命のその話は心からのものではなく、極端に走ってしまい、自我がないのです。それでは、誰を済度すれば良いのでしょうか? どれがあなたなのでしょうか? 神はこのような生命を最も見下しています。このような人が大法弟子の中に入りましたが、大法の中にいないのです。本当に気の毒です。正念がないのです」(『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」) 

 よく考えてみると、安全を重視しない心は、恐怖心と強烈な目的を持って大法のことをする心の現れです。恐怖心と目的心を抱えて猛進する両端間に揺れて、自我が分からなくなりました。そして安全を軽視することは顕示心と口を修めない、便宜を図る安逸心で、環境がよくなったと思い込んで油断した心でもあります。

 また、不注意の裏にはある観念があります、即ち私の「正念が強い」のであれば、表面上の安全を軽視しても構わないと勘違いしています。師父は「神の作用があるからといって、成熟ではない、完璧ではない作品を認めてしまうようなことをしてはいけません。完璧の作品に神を加えると、それこそ神聖ということです」(『美術創作研究会での説法』)と仰いましたので、神の力を用いて人間の不足や人力で解決できるものを代わりにしてはいけません。安全に注意することは人力で解決できるものなので、一概に師父と神々、「正念」にお任せしてはいけません。修煉者の純粋な正念に安全を注意することを加えて完璧になります。上記の安全を注意すること自体も大法弟子の正しい行い正しい念の一部であり、人心と観念を無くして初めて理知で冷静に法を実証する道を歩むことが出来ます。

  個人的な悟りです。ご慈悲に指摘して下さい。

  2010年6月26日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/6/16/225470.html

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