真に内に向けて探し、よく修煉できてこそ、衆生を救い済度することができる(一)
文/黒竜江省の大法弟子
(明慧日本)この1年間、私は修煉の尊さと厳粛さ、及び同修と協力し合って法を実証する中で、内に向けて探して修め、自我を放棄し、師父と大法が求めるものを円容することがよく理解できました。また、自分自身の衆生を救い済度する責任も明確にすることができました。
内に向けて探すことがきた
修煉してから長い間、私は自分が内に向けて探すことがよくできていると思っていました。他の同修にも、「あなたは内に向けて探すことがよくできており、法理もよく分かっています」と認識されていました。だから長い間、自分がよく修煉できていると思っていました。同修に対してもずっと欠点を見続け、自分が他人よりよくできていると勘違いして、自分が悟ったものを他人に強引に押し付けたりしていました。その結果、2008年の後半になると、周りの環境がすっかり変わり、よく接触する同修に、私の話は刀のように他人を傷つけて、慈悲心が全くないと言われました。これを聞いた私はすぐ平静でいられなくなり、口では内に向けて探すと言いながら、内心はすでに爆発しそうでした。
冷静になると、自分は話す態度と慈悲心を修める必要があると分かりました。その後、同修と交流する時、話す態度を非常に気をつけて、さらに同修を傷つけないように相手の不足も言わないようにしました。このような状態は真に内に向けて探したわけではなく、自分を保護するようになっただけです。同修を刺激しなければ、自分も言われることもなく、傷つけることもないと考えていました。これは、自分への執着を放棄することができていなかった現れです。
もう一件の出来事は、私は今年から同修達と協力して神韻DVDと真相資料を配るようになりました。やり始めた頃、私は協調人をやる気のある人にやらせて、自分が資料だけを作り出したらいいと思っていたのですが、相談した結果、ある学法グループの同修が協調人をやりたいと言い出しました。しかし、このグループは最も参加したくなく、しかも、すべてのグループのメンバーがほとんど嫌いな人ばかりでした。今までは時間のゆとりが少しありましたが、今は資料を作りながら、協調も手伝わなければなりません。周りの同修が彼らを法において向上させるべきだと私に注意してくれるのです。私自身も責任が大きく圧力を感じました。
他人を嫌うとその人を改めさせようとする気持ちが出てきて、法を実証し、衆生を救い済度する効果がいかばかりかは、想像もつくでしょう。最初は、神韻の重要性を皆知っているため、協力的でした。しかし、皆が内に向けて探してこの環境をよくしようとしないため、邪悪の隙に乗じられ、チームの同修をだらけさせ始めました。真相資料を配りたくなくなり、やりたい同修もさまざまな邪魔が入り、配れなくなる現象が現れてきたのです。
こうなると、私はさらにこのチームと一緒にやることが嫌になり、チームの同修がだめなら、自分でやればいいのだとしか考えませんでした。この時の私は内に向けて探すどころか、実際にいかにやるかばかり考え、自分も随分苦悩しました。慈悲なる師父は、精進できない私の真に修煉したい一念を見定め、いろいろな同修を通して注意され助けてくださって、自分の不足に気づかせてくれたのです。
そこで私は、修煉の道程で自分に不足がないかを見つめ続けるべきで、同修の不足に執着してその場を大きくしてはいけないと悟りました。
師父が『ロサンゼルス市法会での説法』の中でこのように説かれました。「いつも人の不足ばかりを見ていて、自分を見ることを重視しておらず、相手はよく修煉できましたが、あなたはどうなるのでしょうか?」「なぜいつも、意見を受け入れずに、ほかの人ばかりを見ているのでしょうか? なぜ、内に向けて修めず、自分を探さないのでしょうか? 自分のことを言われると、なぜ機嫌が悪くなるのでしょうか? ここに座っている皆さんの中に、突然誰かに名指しされて罵られたとき、平然としていられる人が何人いるのでしょうか? ほかの人に指摘され、批判されたとき、心が動じることなく自分の原因を探す人が何人いるのでしょうか?」
この部分の法を読んで、私は冷静になって真に内に向けて探し始めたのです。なぜ私は他人に言われると嫌なのでしょう? なぜ私はいつも他人を傷つけてしまうのでしょう? なぜ他人に不足を指摘された時、そんなに辛くなるのでしょう? 他の同修の欠点を見ると、なぜ嫌気を起こすのでしょう? 原因はなんでしょうか? その原因は、私の心を動じさせた人と物事はすべて私の自我への執着と幾度かの輪廻で生じた自我を保護する観念の現われです。
修煉とは、自分の長い間で形成した人間の観念を取り除いて、「真・善・忍」に従い無条件で法に同化し、自分を浄化して新しい宇宙の要求に同化していく過程です。これを悟ると、内心は嬉しさであふれて、1人の生命が法において向上できた喜びを味わいました。
それ以後、私は自分を厳しく律するようになりました。何かに遭うたび、自分を見つめ、師父が弟子にどの面において向上させられるのかを探し、師父が求められることをし、心の底から同修の助けと注意に感謝するようになりました。こうしていくと、自分の容量が拡大されたと感じ、常人と同修のことも、さらに深い理解と寛容することができたのです。すると、すべての同修は、以前見えなかった多くの長所を持っていることが見えてきました。真に執着を取り除いて他人を改めようとせず、一心に自分を修めていると、同修達も変わり始め、皆内に向けて探すようになりました。法を実証することも皆自ら進んで参加するようになり、自分の得意分野で発揮し法を実証しようとするのです。実際は同修が変わったのではなく、私が自分を修めることができたからです。
(続く)
2010年6月28日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2010/3/19/220065.html)
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/3/30/115706.html)
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