師を信じ法を信じる念は 揺れてはならない
文/中国の大法弟子
(明慧日本)最近身近な1人の同修に病業の現象が現れ急に亡くなりました。亡くなった同修は比較的固い信念で精進していたので、周りの同修に大きな影響を与えました。こんなに精進しているのに迫害されて亡くなったことは理解できないと話す同修もいました。私は同修の話から、師を信じ、法を信じる根本的な問題を見ました。
世の中の全ては偶然ではなく、修煉はなおさらです。十数年の迫害の中で労働教養所、刑務所の中で迫害され、或いは病業でなくなり、法は得たものの長時間修めないということは、個別の現象ではありません。その中にはさまざまな原因があり、肉眼では表面の表れしか見えませんが、異なる空間には私達が見えない要素が多くあります。私達がどのようにこの問題を見るか、これはわれわれの法理上の認識と心性の試練でもあります。
皆さんも知っているように『西遊記』の三蔵法師は取経のため81回の難に出会いました。果たしてこれらの難はどこから来たのでしょうか? 如来佛と観音菩薩が設けたもので、これらを乗り越えて正果をえたのです。
われわれは学法のなかで、自分がどこからやってきて、ここに何をしにきたか分かり、将来どこへ行くか分かります。それならわれわれは大法で一切を量り、問題をみるべきで、常人の思惟で問題を見てはなりません。同修が迫害されて亡くなることは、われわれにとって悲しく切ないことです。しかし修煉の角度から見ると、同修の迫害は自身に原因があるわけで、旧勢力との関係や、他の要素があるかもしれません。各種の原因はわれわれには分からず、はっきりしません。
旧勢力が按排した道は、師父は認められず、われわれに徹底的に否定し、承認してはならないと教えられました。「なぜ邪党文化を注ぎ込まれた常人の言ったことを第一位に置くのでしょうか? なぜ邪悪の迫害をそれほど重く見ているのでしょうか? よく考えるべきです」。(「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」) われわれが迫害を重く見て、常人の思惟で理解できなくなるのは旧勢力の迫害に言い訳を与えることになるのではありませんか。
実は師父は病業の迫害について多くおっしゃり、われわれに告げられました。「法を師とすべきです。誰それの修煉を見て、その人を手本にしてしまい、法を勉強しないということをしてはいけません」。(「二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法」) われわれがこのとき、師父の法を思い出し、法を師とすれば理解できないことがありえますか?
修煉中の人は私心と執着心があるもので、見つかれば修めればいいのです。「理解できない」ことの背後には何がありますか? これで法を信じ師父を信じる根本が揺れたら、これこそ大きな問題です。他の心は次第に無くすとしても、師父に対する正しい信念が揺れてはなりません。実は修煉の過程で出会う如何なる難も、旧勢力の試練も、すべては師父に対して、また法に対する信念を試すものではありませんか? われわれが常に法に基点をもち、人の思惟から飛び出して、宇宙の正理で問題を見るなら、何も私達の心を揺るがすことはできません。
今の次元の悟りですので、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
2010年6月30日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/6/16/225469.html)
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