正念について
文/中国の大法弟子
(明慧日本)なぜ、ある同修は刑務所、労働教養所などでひどい迫害を受けているのでしょうか。また、ある同修はなぜそこまで迫害を受けていないのでしょうか。それは、正念が強いかどうかの問題だと私は認識しています。しかし、正念が強い表れはどういうものでしょうか。これまで、私はこのことについてはっきりと認識していませんでした。
私は2000年に労働教養を科され、労働教養所でひどい迫害を受けました。その迫害に抗議するため、断食をしたり、少し過激な行為もしました。その後、迫害は軽くなりました。労働教養所に収容されていた常人は、法輪功修煉者がみな私と同じ待遇を受けていると思っていたそうです。
私は迫害に抗議するとき、頭の中で「生死を放下することができれば、あなたは神ですが、それができなければ、あなたは人間にほかなりません」(『オーストラリア法会での説法』)を暗誦していました。心の中には、「師父は必ず私を保護してくださり、師父は必ず私を保護することができます」という一念がありました。生命に危険があったとき、私は心の中で師父に私を保護してくださるようお願いしました。過激な行為は、大法の法理に符合しない(過激な方式で迫害に抗議しない方がよい)のですが、師父は私を保護してくださいました。私は生死を放下したため、生命の危険にさらされたとき、師父が保護してくださり、警官のひどい迫害を乗り越えることができました。ある次元では大法を実証できたと同時に、私の大法に対する認識不足の面も暴露されました。
以前、明慧ネットに掲載された同修の体験を読みました。同修が刑務所で断食で迫害に抗議しましたが、自分の心が動揺していると感じ、断食をやめました。その後、法を暗誦し、法理上で認識を高め、恐怖心が現れたとき、正念を発して取り除きました。迫害に抗議するときに再び恐怖心が表れると、すぐ正念を発して、取り除きました。恐怖心が取り除かれたとき、邪悪の迫害要素も全部解体していました。最後に、その同修は労働を強要されなくなり、正々堂々と刑務所内で煉功することができたそうです。このことから、師父がおっしゃった「恐怖心がなくなれば、あなたを恐れさせる要素も存在しなくなります」(『精進要旨』「最後の執着を取り除こう」)の説法が実証されました。
私の妻は、かつて迫害を受けたことがあります。警官は労働教養所で妻の「転向」を企みました。警官はいつもの手段を使って、「転向の攻略」を強行しました。妻を単独に拘禁し、数人の受刑者と数人の警官が交代で、妻に対して毎日大法を批判するビデオを見せ、洗脳も行いました。それは昼も夜も続き、この関門を乗り越えた修煉者は少なかったのです。しかし、妻は「一つの心も動じなければ、すべての動きを制することができるのです」(『精進要旨』「最後の執着を取り除こう」)という正念を持って、心が動じず、目を見ず、話を聞かず、考えず、反論せず、心ですべて排斥しました。必要なときに、邪悟者に「あなたは私の師父の名前を呼ばないでください。自分のことを修煉者と言わないでください。あなたは私と話す資格がありません」と一喝しました。邪悟者はいつも、目的に達しないと大法弟子を暴行するそうですが、しかし、妻の正念の下で崩壊してしまい、それからいわゆる「教育」、「転向」は行われなくなりました。そのほか、妻は受刑者や警官に対して善をもって、穏やかな心で慈悲をもって対処しました。この善のパワーにより、悪い人にも悪の面が現れなくなりました。
しかし、妻と反対に、私は労働教養所で警官に対して鋭い対立の姿勢を取りました。迫害は軽くなったものの、修煉の境地が明らかに低かったのです。もし、妻のように善をもって衆生に対して慈悲深く対処できれば、生死を放下すると同時に、平和で慈悲の力で悪を解体すると、結果はいっそう良くなり、より多くの衆生を救うことができるでしょう。
多くの同修は、労働教養所で迫害に抗議するとき、最初は堅持していたのです。しかし、最後に「転向」させられたか、迫害がひどくなったのかのどちらかになりました。なぜならば、正念が不足していたため、または法理がはっきり分かっていなかったからだと思います。
師父は「過ぎ去ったこの1年の間で、学習者自身の業力、法への認識不足、難の中で放下できなかった執着、辛い関を乗り越える中で正念をもって対処できなかった、等々のことは、みな邪悪が迫害を強めた主要な原因で、邪悪が本当に法を破壊する根本的な口実です」(『精進要旨』「最後の執着を取り除こう」)とおっしゃいました。
自分が歩んできた数年の修煉の道を振り返ってみると、師父の説法に対して、私はほとんど理解できていませんでした。
今の私はまだ執着心をいっぱい持っています。1回目に迫害されたとき、邪悪に妥協しなかったため、現地の同修が私のことを常人の「英雄」として崇拝しました。私も崇拝されて嬉しく感じていました。2回目に迫害されたとき、自分の執着心を探しましたが、なかなか徹底的に取り除くことができませんでした。難関の中で正念で対処できませんでした。自分は大法弟子で、師父が按排してくださった道を歩べきだと思っていませんでした。師父は正念を発することを私たちに教えてくださったのですが、自分は発正念することを十分に重視せず、発正念するとき、集中力が足りていませんでした。これらが私の今の不足です。
以上、現段階での私の正念に対するわずかな認識です。
2010年7月25日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2010/7/16/227034.html)
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