病業の反応から、内に向けて探すことについて語る
(明慧日本)私は、若い大法弟子です。一部の高齢な大法弟子と比べたら、体の病業の反応はさほど強くないので、病業については、ずっと特別に深く感じることはありませんでした。
ところが最近、私の指から業を消す現象が現われました。指が乾燥して裂けてしまい、ある時は血が出たり、ある時は膨らんでしまったり、ある時はとてもかゆく、とにかく気持ち悪かったのです。この時、私は内に向けて探し始めました。いったい自分のどの心を放下しなかったことが原因なのでしょうか?
初めに、私は自分の闘争心や安逸心などを見つけました。しかし、私は自分の指が良くなっていないことに気付きました。私はまた内に向けて探し、自分が人を済度することを頑張っていないことを気付きました。そこで、そのことを頑張り始めました。
でも指はやはり良くなりません。この期間中、私は発正念を強化してみましたが、効果はよくなかったのです。私はいったいどうしたものかと、とても迷いました。一度、私は同修とこの件について話しました。彼は私に「動揺しないように」と言いました。私はその言葉を聞いた後、何か分かって来たような気がしました。私はこのことをあまりにも気にかけすぎていたようです。私は四六時中、意識的にも無意識的にも自分の指に注目し、いつも早く良くなってくれないかと期待していました。これこそが執着でした!
師父はこのようにおっしゃっています。「長きにわたって、一部の学習者はどうしても根本的な執着を取り除いていません! 最後まで溜まって、乗り越えられなくなり、難が大きくなりました。問題が現れたら、心性から探し、根本から自分を高め、真にこのことを放下し、他の方面から正々堂々と歩んでくるのではなく、そのことに対して、なぜこれをまだ乗り越えられないのでしょうか、今日少し良く行なったから少し良くなるはずで、明日更に少し良く行なうから、更に少し良くなるはずだと考えています。このことをいつも放下することができず、『私は良く行なっている』と見た目では放下しているように見えます。あなたが良く行なっているのはそのことのためです! あなたは本当に大法弟子として行なうべきことのために行なっているのではありません!」(『大ニューヨーク地区法会での説法』)
「修煉者にとって、きっと試練があります。正しく行わなければ、絶えず厄介なことが現れます。正しく行っても、修煉の中の試練も絶えず現れます。皆さんはそれを一概に妨害と見なし、この厄介なことを終わらせるために解決しようとするならば、解決することができません。なぜなら、それはあなたの向上のために現れるものだからです」(『二〇〇六年カナダ法会での説法』)
私は、執着の原因が分かりました。実はこの期間中、私は修煉し、内に向けて探しているように見えましたが、実際には問題を解決するために修煉し、問題を解決するために内に向けて探したのです。これは求める心があったのです! これが修煉者の状態だと言えるのでしょうか?
私はもう一つ見つけました。実は病業の問題だけではなく、他の関門を越える時も、このような状態がよくあるのです。関門を越えるために内に向けて探し、自分が内に向けて探したら、この難関はすぐに消えてしまい、ただちに良くなることを願っているのです。これはもう、ある種の無意識的な執着となっていました。
実はその背後には「良くないことには会いたくない」「苦痛を受けたくない」「なんでも思っている通りに行ってほしい」という一つの執着が隠れていました。ネットで見た同修の修煉体験では、自分自身の執着を探した途端、その人自身が抱えていた問題に転機が訪れたという修煉体験もよくあります。
私の個人的見解では「ある問題は、私達の正念が出た途端に、すぐよくなる可能性がありますが、ある問題はそのようにはなりません。なぜならば執着の大きさが違うし、放下すべきものも違うからです」ということです。関門を越える時、私は難関そのものを重んじるべきではなく、内に向けて探すことが必要であり、ましてや私達が必ずしておくべきことだと思っています。
しかし、内に向けて探すことが万能の良薬であると思い、薬を飲めば病気はすぐになくなることを希望してはいけません。一旦転機が現われないと、また疑惑と消極的な思いが浮かびます。特に病業の関の中で、ある同修は内に向けて探した後、自分の「病気」がよくなってないことを見て、個人的に発正念してみてもグループで発正念してみてもよい効果がないため、薬を飲もうとか、病院に行こうなどと考え始めるのです。
ひいては、法に対する疑いが生じ、法に対する堅い信念が揺らぐのです。この数年で、一部の同修達は病業が原因で亡くなりました。私はこれらの原因があると思っています。私は問題にぶつかった時、私達が内に向けて探すと同時に、「三つのこと」を良く行えば、この問題は解決できると思っています。
ただ、いつ解決できるかという時間の問題で、精力をこの問題に集中させて執着してはいけません。その中で苦痛を受けたからといって何があるのでしょうか? 気にしないで、すべきことをしたらいいのです。
今朝、私は突然師父のおっしゃった「一人の修煉者として、この特性に同化したら、貴方は即ち道を得た者であります。このように簡単な理であります」(『転法輪』)という部分を思い出しました。実は、宇宙の特性に同化することこそが私達修煉者の目的であり、この過程ですべての問題は、ただ表面的な一部の現象にすぎません。私達自身にさまざまな執着があるからこそ、修煉においていろいろな現象が現われて来るし、修煉において私達が超えるべき関門になったのです。これらの現象自体は何でもありません。大事なのは、その中で私達の執着心が反映されるため、それを取り除くことができ、真善忍に同化するのです。私達が内に向けて探すのも、宇宙の特性である真・善・忍に同化することです。なぜ、問題の解決ばかりに執着するのでしょうか?
私の個人体験に不足な部分があれば、同修のご指摘をお願い致します。
2010年8月2日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/4/13/221452.html)
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/4/23/116283.html)
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