■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/08/15/mh163541.html 



内に向けて探し、学法グループが穏やかな雰囲気に包まれる

文/中国重慶の大法弟子

(明慧日本)ある日、私たちが学法の準備をしているとき、他地区の同修が一人の同修を連れて学法グループに来ました。私はこういうやり方は適切ではないと思いました。もし、このまま続けていくと、学法グループおよび参加した同修の安全に危険をもたらすので、こういう行為はやめるべきだと思いました。事後、私が部屋の主人の同修Aさんとこの件について話し合ったところ、彼女は事前にこのことを知らなかったということでした。また、最近の2カ月は忙しくて、一時学法グループを休みにして、9月にまた再開しようと思っていることも伝えてくれました。

 この状況を知った私は、まず同修Bさん、同修さんとこの事について話し合いました。また、彼らにAさんがもしかして数日後、考えが変わるかもしれないので、他の人に言わないようにと伝えました。しかし、2日後、もう一つの学法グループに行ったところ、Cさんは学法グループの安全に気をつけるべきだと強調するとき、このことを例にして分析しました。これを目にした、同修Dさん(先日、私たちの学法グループにやってきた他地区の同修とDさんはとても親密な関係)は耐えられなくなり、早めに帰宅しました。しかも、このことにかかわる同修の人数はますます多くなり、関連する問題もますます大きくなり、誤解もますます深まり、同修たちの間の間隔が大きくなりました。ふと見ると、修煉団体に見えないくらい、完全に常人の論争に陥りました。私自身も自分の立場がとてもつらいと感じました。

 私は、このことが偶然に発生したのではなく、私たちの修煉団体に向けてやってきており、私たちの関連する同修の執着を異なる次元、異なる角度から十分に暴露しており、私たちはこのチャンスを利用して、その執着を取り除き、法の中で自分を正し、速く向上すべきであると分かっていました。

 しかし、目の前で起きているトラブルに対して、私たちはどうしてこれほど多くの人心が浮かび上がって、放下できないのでしょうか? いったい私たちのどの人心と執着に触れて、私たちはこれほど苦しく感じるのでしょうか? 師父は「皆さん、必ず覚えておいてください!  修煉そのものが苦しいわけではありません。 肝心なのは常人の執着を放下できないからです。あなたたちの名、利、情を放下しようとするときこそ、苦しいと感じるのです」(『精進要旨』「真修」)とおっしゃいました。

 皆が冷静になった後、これは修煉者のあるべき状態ではなく、まさに私たちの放下できない名、利、情に直接触れており、必ず法の中で正さなければならないと意識しました。地区の協調人であるCさんはいろいろな方法で数日の間、4回のグループ勉強会を組織し、繰り返して『転法輪』の第四講と『精進要旨』「真修」、『マンハッタン説法』、『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』を勉強しました。内に向けて探す中、みな自分が法に則っていなかったため、互いに責めていたことを深く反省しました。

 私たちはこのことにおいて、誰が正しく、誰が間違っているかを別にして、各自がこのトラブルの中で、修めるべきどんな人心と執着があるかを探しました。Aさんは困難を克服して、引き続き学法の場所を提供してくれたため、学法グループは正常に運行することができています。上記の状況を聞いた、他地区の同修はDさんに、自分の代わりにAさんに心から陳謝を伝えるように頼みました。

 内に向かって探す中、骨身をえぐるような感覚は、私たち修煉者だけが体験できるものです。私は前後して、口を修めないこと、慈悲心が足りないこと、人に言われたくない心、焦る心、つらいと思う心、メンツを気にする心、心のバランスが取れないことなどを見つけました。私が内心の深いところから、自分が口を修めなかったため、業を作ったばかりではなく、相手の同修をも深く傷つけたことが分かったとき、私はやっと口を修めることの重要性を深く認識することができ、私に直ちに、傷つけたDさんに心から陳謝しました。

 トラブルの中で、私は学法グループと同修の安全、及びグループ学法の正常な運行を心配しているようでしたが、実は内心の深いところに自分の見方が正しいということを実証しようとする私心がありました。私は現在退職しており、大法を12年修煉してきましたので、名、利、情はとっくに淡々とみていると思いましたが、実はこれこそ、私の名に対する執着を表しています。どうして自分はそれほど辛く感じたのでしょうか? それはまさに同修に対する情をまだ放下していないことではないでしょうか? 忍耐することができず、口を修めないことは、まさに私が真、善、忍の善と忍ともよく修めてないことを現しているのではないでしょうか? 善と忍がなければ、どうやって真を守れるのでしょうか? ここまで探して、私はとても恥ずかしく感じました。12年も修煉したのに、どうしてこんなにしっかり修煉できていないのでしょうか? 本当に師父に申し訳なく、大法に申し訳ないことでした! しかも、私はまだ自分を実証していて、いつも自分の私心を守りたいことは、私の修煉の全過程に潜んでいて、少し切り離すと、また少しやってきて、いつも終わりのないように感じました。私は、これも私の根本的な執着であり、旧宇宙の要素に利用されていると感じました。

 師父は私たちに無私無我の正覚を修めるように要求されました。私たちは必ず名、利、情を完全に放下し、すべての私心を取り除き、その中で、自分を実証し、自分の私心を守ることも含めて、これらを徹底的に捨ててから、やっと人間のこの殻を抜け出すことができます。ですから、私たちは執着を取り除くとき、これほど、骨身をえぐるように辛く感じ、修煉はこれほど難しいと感じます。これを探し出すと、私は本当にほっとしました。BさんとCさんも口を修めない、焦る心、慈悲心が足りないなどの執着を見つけ出し、Dさんは度胸が足りないことを探しました。そしてトラブルも、同修たちが法に同化する中で、自ずと解けました。

 同修たちは、今後必ず口を修めることに気をつけ、メンツの観念をなくし、もし誤解があったら、面と向かって交流し、法に則っていないことは話さない、法に則っていない話は流さない、トラブルに直面したら自分に向けて探し、内に向けて探す規制を形成すると話し合いました。同修は絶えずほかの同修に心を配り、同修のために考え、さらに慈悲を修めれば、間隔もなくなり、共に精進することができます。この時、学法グループ全体は穏やかで、慈悲の雰囲気に包まれました。皆の心が軽くなり、心の容量を増大させ、神の道において、また大きな一歩を歩んだと感じました。ここで、師父の慈悲なる按排に感謝いたします! 師父の苦心なる済度に感謝いたします。

 内に向けて探すことを通して、私は悪いことを良いことに変え、間隔をなくし、執着を取り除き、正念を加えることができました。これは師父の慈悲で苦心なる済度です。

2010年8月15日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/8/9/228121.html

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