神韻を広める過程で自分を清める(三) 文/ワシントンDCの大法弟子
(明慧日本)
三、どのような環境の中でも、いつも純粋な心で対応すべき
それでは皆さんと、数枚のチケットを販売する過程で起きた体験を分かち合いたいと思います。
体験1
一度、ある地方に行ってチケット販売をするのに、すべての設備環境は私がよく把握しておかなければなりませんでした。前日に私が状況を聞いたら、その地区の人の話によると「テレビを持っていく必要はありません。テレビはありますよ」ということでした。
翌日、行ってから分かりましたが、私達のテーブルは廊下に置かれているので、窓ガラスを通してしか部屋の壁にかかっているテレビを見ることができず、それも窓ガラスにはたくさんの常人の宣伝広告が貼られているので、広告の間の隙間を通してやっとテレビの画面が見えました。音は完全に聞こえません。観衆のインタビューを放映する時は、さらにわけが分からなくなりました。持って行ったパソコンは、電波が高い建物によって妨害されてインターネットに接続できず、チケットの販売状況も見ることができませんでした。私はパソコンで神韻の広告を開こうと試してみましたが、その中の30秒のものしか開けず、繰り返して放映することもできませんでした。お昼の2時間だけ宣伝するので、職場を出入りするには特別な証明も要るし、他の人が私を送迎してくれたので、当日はこのような不足を補うことができませんでした。
初めは少し焦りました。なぜなら、完全に私が予想した状況と違かっていたからです。心では、夫に対する不満も生じ始めました。前夜に、私は夫に自動繰り返しのDVDを作ってほしいと頼みました。そうすれば、私はパソコンからも放映できるし、万が一の事態を防ぐことができるのです。彼はある理由をつけてしませんでした。夫はもう夜もとても遅くなっているし、煩わしいからしてくれなかったのでしょう。また彼が普段、私の事をあまり気にかけてくれていないことをも思い出し、怒りが込みあげてきました。しかし、考えてみても仕方がありません。不満を抱えても何の問題も解決できません。黒い物質を発するだけで、人を救う場をさらに不浄にし、人を救うことをさらに難しくさせるのです。
神韻の公演は完全な善であり、完全な美であるからこそ、打ち出したエネルギーは衆生を救うことができます。どの団員が、公演する前にまだ立腹しているということは聞いたことがありません。表面上では、私達は一つの公演を紹介するにすぎませんが、もし私達自身の場が不純であれば、私達の話す言葉には力がないし、常人の心を動かすことができないし、人を救う作用が起こりません。
少しずつ、私は心を落ち着かせました。私はまず写真集で一度紹介し、その後、「私にはまた往年の世界中で知られている名作ビデオがあるから見せてあげますよ」と言い、すぐ放映し、短い30秒で相手がまだ見足りないという気持ちであれば、私はすぐ座席表を相手に見せながら、お客さんに「まだ少し良い席があるので、早めにチケットを買った方がいいですよ」と伝え、その後、電話で同修と連絡し、座席をよく選んで残しました。一部の人はその場でチケットを購入し、多くの人は家に帰って時間を相談した後、翌日に来て買いました。もちろん、翌日には私はテレビを持って行き、その後、販売されたチケットももっと多く、ある時は行列になって来て買うので、本当に忙しくてたまりませんでした。お客様のチケットを選ぶ世話をしながら、またチケットを注文する電話がかかってきて、後ろの一人はどの座席を選ぶかを待っているし、そこにはまた一人が質問をしようと待っています。
私の体験は、困難を前にして、それをとても重く見るのではなく、内心からの慈悲で平穏な状態を作ることが人を救うキーポイントとなるということです。すべての困難を困難ではないと見なし、方式を変えて事をするにすぎません。テレビがなくても、パソコンがなくても、やはりやるべきだし、結果を求めず、過程を重視したら、結果はその中にあるのです。本当の障碍は私達自身の心にあり、純粋な心から打ち出したエネルギーこそ、常人を変えることができ、衆生を救うことができるのです。
(続く)
2010年8月18日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/7/26/227536.html)
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