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同修を助ける中で自分を修める(一)


文/中国の大法弟子

(明慧日本)偶然に、数人の田舎の同修と知り合いました。交流する中で、彼らは着実に修煉する方面において不足があり、またどうやって修煉するかもあまり分かっておらず、学法も足りず、皆で全体を成していないことも分かりました。私は古い弟子として、このような状況に出会ったため、執着から抜け出し、しっかり大法を実証し、師父の必要とすることを円融することができるように、同修たちを助ける責任があると感じました。

 一回目に田舎に行った際に、私は彼らと深く交流をしました。その中で、彼らはみな個人修煉の状態であり、出発点は私(し)であるが、精進しようとする願望があることが分かり、現地の同修が協調して全体を成すようにさせたいと思いました。交流する中で、これらの同修は出発点が個人修煉であるため、問題にぶつかると後ろに引いてしまうことが分かりました。例えば、ある同修は執着心があって、学法グループに参加しませんでした。同修が彼女に学法グループに参加するように誘うと、彼女はきっぱり断り、またその言葉もあまり良い言葉ではなかったのです。同修は彼女のこの様子を見ると、そこまで言うなら、もう成すすべがないと思っていました。

 この問題について、私は彼らと交流しました。私は自分の認識をこう述べました。「もしあなたが本当に彼女のために言うなら、彼女がどんな態度であっても、気にすることなく、まず自分を探すべきであり、自分にどんな問題があって、同修がこんな態度なのかを探すべきです。問題点を探し出してからは、自分の不正な部分を正し、同修を見捨ててはいけません。善の心を持って、同修と交流し、同修が学法グループに参加できるようにすべきです。出発点が個人修煉であるため、同修のそのような態度を見ると、表面的には、あまり多く言って同修を傷つけたくないように思えますが、実際には自分が傷つけられたくなく、やはり自分を守るためであり、もし本当に人のために考えるなら、自分の損得を気にしないはずです」

 帰り道に、同修たちの分かっているような、分かってないような、無表情の顔を思い出すと、彼らがあまりよく理解できていないと思い、焦る心が生じました。「このような同修は法を正す進展の足を引っ張っている、いつになったら、追いついてこられるのか」と思い、心が乱れて長い間穏やかになれませんでした。学法しても、発正念をしても心が静まらず、頭の中に出てくるのはすべて、彼らの良くない状態の事でした。

 この状態は正しくないと自分でも気づきました。どうして人の問題だけを考えるのか、自分には問題がないのか、これでは自分を修めていると言えるのか、と思いました。今回の交流を振り返ると、自分が彼らより修煉が良くできているという心、焦る心があることが、内に向かって探したことで出てきました。これらを探し出したら、すぐに正念を発して取り除きました。また、心を静めて学法すると、これらの良くない心が多く取り除かれ、心も穏やかになりました。

 (続く)

 2010年8月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/8/22/228653.html

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