日本明慧
■印刷版   

自我を放棄し、寛容できるように次元を高めていく(二)

(明慧日本)その後、私は尋ねてきたBさんに苦しみを一気にぶちまけました。表面上では、言っていることが理にかなっているように聞こえますが、実のところ、愚痴をこぼしているだけでした。

 Bさんは私のぶちまけた不満を聞いて、冷静に言い始めました。「私達はみな大法弟子で、一緒に交流して互いに向上することができます。相手が自分に意見があると見て自分を堅く閉ざしてしまったら、互いに隔たりを作って上手く協調が取れなかったら、誰が一番喜ぶと思いますか? 邪悪ではありませんか。これはまさに邪悪が背後で作用していることです。自分を閉さずどころか、逆にAさんに会ってよく交流すべきです。相手がなぜあなたにそのような考えを持っているかの問題点を探し出すべきです。皆が法に照らして、誰が法に基づいていないのかを見つけ、改めるべきです」

 Bさんが帰った後、私は1人静かに座り、師父の慈悲なるお顔が浮かんできて、師父の説法の声が私の耳元で漂っているように感じました。私はまず修煉者であり、いかなることに遭っても自分を修める必要があります。常人の理に従えば、他人を修めることになります。私は修煉者であるため、修煉の角度で問題を考えるべきで、法を実証することに有利であれば自ら進んでやるべきです。やるべきことであれば、なぜ条件を並べるのですか? 少し大法の仕事をするとすぐ偉いと思い、他人に褒めてもらいたくなるのは、執着心の下で物事を運んでいるのではありませんか? 師父は、私達が様々な環境で無私無我の大覚者にまで修めることを望んでおられます。しかし、私は執着心の下で大法の仕事をやっているため、自分の不足に気づかず、やったことだけに目が留まり、その執着心を徐々に大きくさせました。これは、真に修煉しているとは言えません。

 私は、2年前に同修が書いた文章を思い出しました。「一粒の砂の中にすでに三千大千世界があるのに、修煉者の心の中にどれほどの三千大千世界が存在しているのでしょう。無数の三千大千世界を心に収めている修煉者の心に、まだ何か収めることができない物があるでしょうか」 これは、同修が真に修煉を経てから悟ったことだと分かります。同修の慈悲、次元と比べると、私はいかに及ばないかが分かりました。

 今後の修煉の道で、私は必ず自分を厳しく律しなければならないと決心しました。自分に執着せず、次元を高めて他人を寛容でき、師父が求められている無私無我の正覚者になるよう頑張ります。このようになってこそ、真相をしっかり伝えることができ、より多くの衆生を救い済度することができるのです。

 (完)

 2010年8月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/7/25/226817.html

■関連文章
自我を放棄し、寛容できるように次元を高めていく(一)
人を助けることは 自身を助けること
自我を放棄し、全体を円融する
法輪功を信じ、その一念により命が救われる
アメリカの主流社会に神韻を紹介した体験(四)
大学講師が法輪功を修煉するようになった経歴(一)
寛容
他人の不足に気づいたとき、自分に向かって探す
師父に与えられた道を正しく歩む(二)
「着実に修める」ことをしっかり行なう