迫害を否定するには念が正しくなければならない
文/中国の大法弟子
(明慧日本)この問題は長い間考えていましたが、今まで文章に書きませんでした。しかし最近、一部の同修(迫害された2人の同修)と交流したとき、ある同修の認識はまだ旧勢力の按排の中に留まっており、観念が完全に変わっていませんでした。今日、自分の次元での認識を書き出して、皆さんと交流したいと思います。
ある日、同修の家に資料を届けに行くとき、私の後をつける人がいて、どのように真相を伝えて彼を救ったのかを同修に話しました。すると同修は、私達が資料などを持っていなければ怖がる必要はなく、真相資料などを持っていれば危険で迫害されるということでした。私は直ちにそれを糾しました。「それは違います。真相資料などを持っていればさらに怖くありません。これは人を救う法器であり、邪悪が迫害する言い訳にはなりません」
また資料を配る同修は、家まで尾行されてパソコンなどを差し押さえられました。修煉者のパソコンが差し押さえられることは正しくありません。その同修は「パソコンには大法の資料が入っており、明慧ネットに繋がるからだ」と言いました。彼の頭には邪悪の台詞が残っています。「明慧ネットに繋がるから差し押さえられる」 もう1人の同修もだいたい同じ状況で、パソコンに大法の資料や『九評』などがあるから差し押さえられたと話しました。
よく同修たちが書いた文章と真相資料にこのように書かれたものを見ます。ある同修が真相を伝えて警官に捕まった。またある同修は真相資料を配って捕まり、修煉を放棄せず拷問を受けたなどなど。これは潜在意識から旧勢力の按排を認めているように感じます。これでは誤って常人を導くことになります。常人はこの人が捕まえられて、刑を下されたのはチラシを配り、法輪功が良いと言ったからだと認識してしまいます。
私が思うには「共産党は法輪功修煉者が真相を全国の人民に伝えることを怖がって、手を尽くして法輪功修煉者を迫害している」と、このように話すべきです。そうすると、世の人々は共産党が悪いことをしたのに、人々が真相を分かることを恐れて法輪功を迫害していると認識するようになれば、世の人々の観念も変わってきます。
誰かが水に落ちた子供を救助したとします。常識ではこの人は良いことをして人々に称賛されるべきですが、誰々が水に落ちた子供を救助したから何年の刑を科されたという人がいると、人々は何がなんだかわけが分からなくなります。
法輪功修煉者が真相を伝え、資料を配るのは、危険を冒して人々を救っているのではありませんか? しかもこれは宇宙の中で一番正しく、一番良いことで、一番大切なことです。資料を配り、真相を伝えたからといって法輪功修煉者が捕まり、刑を科されるのはおかしくありませんか? しかし、ある人は「当たり前だ」と感じています。当然、ここには邪悪の要素と表面空間の共産党が法輪大法と修煉者に泥を塗っており、衆生は騙されています。しかし、決定的な作用を起こすのは法輪功修煉者ではありませんか?
われわれ修煉者でさえ資料を配り、資料を作り、明慧ネットに繋がれば迫害されると感じているとすれば、邪悪はなおさらではありませんか。
資料を作るパソコン、プリンタは衆生を救う法器で、邪悪に迫害される証拠物ではありません。資料を配り、真相を伝えることは、師に手伝って法を実証することであり、根本的に旧勢力の要素とは関係なく、邪悪と迫害にも関係ありません。徹底的に旧勢力の按排を否定して、正々堂々と衆生を救えば、私が思うには、旧勢力はこの方面で何の言い訳も探すことができず、迫害することもできません。
われわれ法輪功修煉者が修煉の角度から考えると、捕まえられたり、刑を科されたりすることは個人の心性に問題があるからだと分かっています。人心があるので邪悪に弱みを掴まれたのです。真相を伝えて、資料を配ったことで迫害されたわけではありません。誰も法輪功修煉者を試す資格はありません。肝心なのは、われわれは徹底的にこのような観念と認識を変えなければならない、ということです。
2010年09月15日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/13/229530.html)
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