■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/09/28/mh295841.html 



法を正す修煉についての悟り(一)

(明慧日本)

一、法を正す修煉と個人修煉

 法を正す修煉は、偉大な師父がわれわれに創ってくださった今までにない修煉方式で、未来にはありえないものであり、法を正す時期の大法弟子の誇りだと思います。それゆえに、われわれはさらに正しく、さらによく行わなければならず、マクロの角度から「法を正す時期」の概念を見るべきで、それは大法弟子が師父に手伝って法を正す洪大な誓い、大きな願いで、衆生を救い済度する偉大な使命を含んでおり、正念を持ち迫害に反対することも、全面的に旧勢力を否定することも、いかなる時期の修煉の方式も越えました。単純な個人修煉なら自分を修煉し、内に向けて自分を探し、ひたすら耐えることで、個人の円満成就、解脱を求めますが、これは法を正す修煉とは比べものにならないのです。過去の修煉は円融が足りず、知恵が不十分で、古い宇宙の私(し)を巡る根本的な属性を突破できなかったのです。
 
 大法弟子はこの特殊な修煉時期を大事にするべきで、個人修煉の状態に留まったままではいけません。私が知る限り、いまだに一部の同修はまだ個人修煉と法を正す修煉との関係を完全に理解していません。さらに、個人の要素で覆い隠す人もいます。甚だしきに至っては一部の古い学習者は家庭の環境が依然として厳しい状態で、意識はまだ根本から個人修煉の状態を転換していません。ひたすら相手の暴力と罵りを受け、甚だしきに至っては本を破られ、法像を壊されても反省せず、真に法を正す角度から問題を見ていません。

 もちろん、個人修煉の要素を排除してはいけませんが、個人の要素で法を正すことを覆い隠してはならず、いかなる生命も師父と大法を誹ってはいけません。本を破り、誹る罪を誰が引き受けるでしょうか。われわれは法を正す立場に立って法を正す威厳を現し、正面から利害関係を告げたうえで、強大な正念を発してその行為を制止します。慈悲で衆生を思い、本質から救い済度しなければならず、一時の誤りで未来を壊してはなりません。
 
 二、安全への注意と恐れる心

 常人が勇敢さをひけらかすことは、恐れる心がないことではなく、小心翼々であることも安全に注意することと同じではありません。

 実は、修煉する人には恐れる心が存在する可能性があり、それは程度の違いだけです。一部の同修は突発事件や危険に遭った時、心の中にある法で恐れる要素を排除し、正念を持って危難を解消しています。一部の人は問題に遭った時、完全に常人の状態になりますが、そうなれば邪悪の妨害と破壊はきりがありません。
 
 安全に注意するのは理智の表現であり、他人と自分に対して責任を持つことです。人間が修煉しており、常人の中で理性を失い、なんでもかまわないと、自由のままの印象を人に感じさせてはいけません。『転法輪』の中に書いてあるように「李先生が守ってくれているから、車なんか怖くない!」というような人は完全に理智を失っているのではないでしょうか。

 安全に注意することは大法弟子が確実に修煉し、常人の次元で正念を持って正しく行うひとつの表現であり、恐れる心の表れではありません。それは、他人のため法のために責任を持つ態度であり、恐れる心は個人の立場から物事を計り、自身の安全と利益の得失を配慮する、私(し)の表現の一つです。
 
 (続く)
 
2010年09月28日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/13/229553.html

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