法を正す修煉についての悟り(二)
(明慧日本)三、正念を持って正しく行えば大丈夫?
同修の中でこういう人がいます。その人が安全の問題あるいは法に基づいていないとき、ほかの同修に指摘されたとき、「正念を持って正しく行えば大丈夫」といつも口癖のように言い、まったく気にしていません。表面からみれば精進しているように見えますが、実際に分析してみれば問題が出てきます。法に基づいていないのに、正念に言及できるでしょうか。私たちが正念をもって正しく行うことは安全のためなのでしょうか。「正念を持って正しく行えば大丈夫」という言葉を常に口にすることで本当に無事になるでしょうか。われわれは真に24時間、正念を保っているでしょうか。問題を指摘されたとき、本当に正念を持って自分の行為を照らしてみたでしょうか。こういった口癖で自分の執着を隠すことは、まさに邪悪に隙に乗じられることになるでしょう。
私たちの現地に実際何人もこのような同修がいて、安全の問題や法に基づいていないと指摘されたとき、「正念を持って正しく行えば大丈夫」という口癖で問題を覆い隠し、邪悪に隙に乗じられ、結局重い判決を言い渡されてしまいました。正念を持ち正しく行うということは口先で言うものではなく、いつも法をもって自分に厳しく要求し、問題があったら内を探し、確実に三つのことをよく行ってこそ真の正念を持って正しく行えるのです。
四、発正念の問題
明慧ネットで、よく国内、国外の比較的大きな事件の情報を見ます。例えば全国の邪悪な「610弁公室」の頭目が武漢に集まって会議をするとか、中共が香港の神韻公演を妨害しているなどです。大法弟子として、まずやるべきことは正念を発して事件の背後の邪悪な要素を解体し、国内外がひとつになって、邪悪を恐れさせます。一部の同修は「動じない」と言いますが、言外の意味は放っておくということで、なんとなく修煉がよくできて、念も動じなくなったと理解するでしょう。個人の理解では、個人の利益あるいは情が損害を受けるときは動じませんが、師父は私たちに世の中で大法弟子の正念を動かしてほしいので、同修、全体、衆生に有利であれば正念で加持すべきだと思います。
五、迫害事件の増加
法を正すことはすでに終わりに近づき、邪悪も最後の狂気と虚勢に走っています。最近、明慧ネットで報道された各地の迫害が増加している事態は、まさに旧勢力が滅亡する前の最後のあがきだと思います。滅亡前に、やはり極力悪事を働き、気に入らない生命を落としたがっているのです。同時に、大法弟子の修煉の中の問題に迫害の口実をつかんだことも反映しています。この点から見れば邪悪が虚勢を張ることも私たちに原因があり、真に内に探さなければなりません。数年前、師父はすでに『最後になればなるほど精進すべき』の法を説いてくださいました。私達は本当にこの限りある時間でよく法を勉強し、衆生を救い済度したでしょうか。着実に三つのことをよく行いましたか。旧勢力は虎視眈々と、迫害の口実をつかもうとしています(当然私達は根本からそれを否定します)。もし、私達が本当に師父の要求に従ってしっかりと行うならば、この虚勢を張る機会さえ、彼らにはありません。
私達がいつも言っていることは、たとえ隙があっても旧勢力の迫害を許しません。しかし、私達はそれをただのスローガン、自分の執着を保護する口実にしてはいけません。執着を見つけたら必ず取り除いて、災いの種を残してはなりません。このようにすれば人心がますます少なくなり、正念がますます強くなって、もし全体がこのように自分を正すなら、邪悪は自分で消えてしまいます。
次元の限界があるため、決して正しい見解とは限りません。慈悲なるご指摘をお願いします。
(完)
2010年09月29日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/13/229553.html)
|