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邪悪を取り除き、修煉の道を正しく歩む


文/中国の大法弟子

(明慧日本)多くの同修が邪悪に迫害されていることは、本当に心が痛みます。なぜ迫害されるのでしょうか。旧勢力は一人一人の大法弟子を虎視眈々と、大法に合わない念の隙を狙います。師父は旧勢力の迫害を認めておられず、われわれも認めません。口先だけでなく、根本的に旧勢力の按排を否定すべきです。どのように邪悪の按排を否定するかについて、自分の認識を話したいと思います。

 一つは念が正しくなければなりません。自分が理解した正しい念とは、まず師父を信じ、法を信じることです。師父が何かをおっしゃったら、弟子はそのとおりに行うことです。考える余地があってはなりません。師父は私達に三つのことをよく行うように要求されました。私達は少しの疑問、不安も持たず無条件に行うべきです。三つのことの一つ、二つを良く行ったとしても、それは師父がおっしゃったとおりに行っているのではありません。師父は『転法輪』の中で次のようにおっしゃいました。「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」 大法弟子は師父に守られているので、誰にも動かすことはできません。

 念が正しいということは、常に大法弟子として自分を律することも含みます。魔難に出会ったとき、病に苦しむとき、私達はまず自分が大法弟子であることを忘れてはならず、自分の一つ一つの念を大法の中におき、邪悪の言いなりになってはなりません。

 「人間の観念を用いて考えるのか、それとも修煉者の正念を用いて考えるのかによって、事の結果が違います」(『二〇〇三年アトランタ法会での説法』)と師父はおっしゃいました。私が思うには、ある同修が邪悪に迫害されたのは自分が迫害されるかもしれないという念があったからです。大法の資料、真相を伝える事が邪悪に迫害される証拠になると考えています。この念は正しくありません。これは邪悪を高く見て、自分を低く見てしまっています。常人でさえ邪は正に勝てないと言っているのに、まして、われわれは正々堂々とした大法の徒です。正しい念、正しい行いは邪悪を怯えさせます。自分を常人と見なすか、それとも神と見なすか、これは正法の道を正しく歩む鍵です。一念の差が、異なる結果をもたらします。

 念を正すには、学法が必須です。真相をよく伝える同修は学法をしっかりと、多くしている同修です。法理で自分の言行を律し、修める中で法に同化されます。私は周りの同修に次のような問題があるのを見ました。集団学法に参加せず、学法ばかりして他の同修と交流をしません。一日一講の法も学びません。学法するとき居眠りをして、学法の量だけを求めます。読んでいても法が頭に入らず、読んだ内容が何なのか分かりません。同修の皆さん、師父は説法の中で弟子に法を多く学ぶことを何度もおっしゃいました。私が思うには『転法輪』を読むばかりでなく、師父の他の経文も学ぶべきです。法の暗記も必要で、重要です。一通り暗記したと満足するのではなく、続けて暗記し、師父のあらゆる法を全部暗記するように努力すべきです。心性は法を暗記する中で向上してきます。法理をはっきり認識すると、正念が自ずと強くなります。

 二つ目は内に向って探すことです。大法弟子は内に向って探すことを知っています。ある同修は他人の問題ははっきり分かりますが、自分の問題は気づきません。常人の出来事も同修の間に生じたトラブルも、まず誰が間違っているかを探すのではなく、無条件に内に向かって探すべきです。これこそ修煉者が持つべき状態です。また、問題が出てから内に向って探すのではなく、実はいつでも内に向かって探す習慣を養うべきです。 
 
2010年10月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/13/230929.html

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