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同修の問題を見たとき、自分を探すこと忘れない


文/中国大連市の法輪功修煉者

(明慧日本)協調人の同修であるAさんと会い、同修のBさんについての話を知っていますかと尋ねました。「聞いた話ではBさんが協調している学法グループは、『転法輪』を数段落読んでから少し時間を取り、今読んだところについて交流し、さらに数段落を読み、また交流するという方式で一年以上続いており、とても効果的だそうです。このことについて周りの同修と交流しましたが、同修たちは、このような学法方式は法に符合していない、ほかの同修にも影響を与えているとの結論に至り、今、Bさんと交流できる法理を探しているところです」と私の考えをAさんに言いました。

 AさんはBさんの話を聞いたことがないといいました。そして、私が話した件についてAさんの意見としては、Bさんのような学法方式は、大法の中に個人のものを入れやすく、法を変えてしまう危険性があり、法を学ぶときは、法を学ぶのに専念すべきだと思うと話しました。Aさんはさらに、一部の同修が地域ごとに分けて真相資料を配るのも、法に符合していない、なぜならば、師父は私たちに求めているのは無形の大道だから、とも言いました。

 私は、Aさんの資料配布に関する理解が法に対して曲解していると認識し、私たち二人はお互いの意見を述べ合いましたが、固執し始めました。私の心理状態が穏やかでないので、私が話した事をAさんは受け入れられず、Aさんが言うには、この行為が良くないと強調するのです。二人の言い争いがますます激化し、私も忍を忘れてどんどんと不満がつのり、体が震え始めました。私はAさんに強固に指摘しました。「あなたの行為は同修たちを法に従わせるのではなく、あなたに従わせようとしている!」最後に二人は喧嘩別れとなりました。

 Aさんが帰った後、私は落ち着きを取り戻しました。自分はなぜそんなに怒り、粗暴な態度で年上の同修に接したのか? 内に向けて探し始めました。そして、私は自分に闘争心、共産党文化の故意に人をいじめ、悪意などが見つまりましたが、これらは表面的なことでしかなく、根本的な執着心が見つかっていないような気がしました。

 翌朝、煉功していたとき、私はまた昨日のことを思い出し、なぜ怒ったのかを内に向けて探しました。脳裏に思わず一つの言葉が浮かびました。「あなたの言ったことを聞いてくれなかったからでしょう」私はハッと悟りました。そうだ! これこそが私が怒った根本的な原因です。それでは、同修が自分の言ったことを聞いてくれないとしてもなぜ怒るのかについて、さらに奥深く探してみました。それは「自我」を実証し、「自我」を守るためだったことが分かりました。だから自分は闘争心、故意に相手をいじめ、悪意が生まれたのです。

 もし、私が実証しているのが自我ではなく、法を実証した場合、違った認識が生じたときに私は相手を寛容すべきで、法の内包は膨大なので、私の認識をもって同修に押し付けるのはどうでしょうか? 同修の法に対する認識が誤っているとしても、私は慈悲の態度で相手に言わなければなりません。同修は法に対する認識の不足によって、誤ったことをしてしまうかもしれないのに、怒っている場合でしょうか?

 師父はAさんやBさんに問題があると私に見せてくださったのは、相手をけなすためではなく、同じような問題が私たちにも存在するということを悟らせようとしてくださっているからです。

 私は明慧ネットの場をお借りして、Aさんに対する粗暴な態度で接したことを心よりお詫びいたします。

 不適切な表現があれば、どうぞ慈悲をもってご指摘してください。
 
2010年10月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/8/230716.html

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