■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/10/24/mh250684.html 



根本から常人の観念を変える

文/中国の大法弟子 胡楊

(明慧日本)長期にわたり、私は自分の修煉の形式に満足していました。学法と発正念を堅持し、また少し真相資料を配れば、三つのことをやったことになると思っていました。精進している同修とは比べものになりませんが、精進してない同修よりはましだと思っていました。安心していて、大法弟子の歴史的な使命と責任から三つのことをやることができず、新しい宇宙の大覚者の基準と真・善・忍の大法の基準をもって自分を要求することができませんでした。
 
 昨年、明慧ネットでの中国大陸大法弟子ネット法会の交流文章を読んだ後、私は深く心を打たれました。自分がまだ「己の愚かな所見に限定された枠の中で永遠に這いまわるしかありません」(『転法輪』「論語」)という状態であると認識できました。10年あまりも修煉してきたのに、どうしてまだ常人のこの殻から抜け出すことができてないでしょうか? 今はもう正法がすでに最後の一歩に差し掛かっているのに、まだ目覚めることができず、奮い立たせて正法の進展に追いつかなければ、最後の機縁を失ってしまい、永遠に後悔し、師父の慈悲なる済度にも背いてしまい、待ち望んでいる衆生らを失望させてしまいます。
 
 学法を通じて、内に向けて探し、私は自分の学法が形式に流されていたと分かりました。そして、自分の本性の一面は学法しておらず、人間の一面が学法していたため、長期にわたり学法しても、法を得られなかったことに気づきました。最近、学法するとき、師父は繰り返し重々しく私に存在する問題点について悟らせてくださり、私が「いつも煉功者としての自覚が欠けている」(『転法輪』)、「元の木阿弥になる」(『転法輪』)と悟らせてくださいました。そして、私はやっと気づきました。常人の観念を変え、個人修煉から正法修煉に切り替え、再び「元の木阿弥になる」(『転法輪』)ことになってはいけません。そうしなければ、この神聖で偉大なる法は、まさに師父の説かれたように「常人という次元、立場、思想境地からでは、本当のことを理解できるはずがありません」(『転法輪』「第一講」)ですから、長期にわたって学法しても、法を得ることができず、これは私の修煉において、最大の落とし穴であって、最大の障害でした。
 
 法をもって「元の木阿弥になる」(『転法輪』)「私」を分析したとき、これは常人の観念を持っている「私」であり、常人の生活方式と思惟方式を持っている「私」は頑固な私(し)をもっている「私」であると分かりました。
 
 長期にわたり、他でもなくこの偽者の私(人間の一面)が問題を見て、問題を処理し、自分を長期にわたる魔難、停止状態に陥れ、貴重な修煉の時間を無駄にさせました。本当に悔しいことでした。例えば、「私」は学法したい、「私」は学法しているという場合、実際は偽者の私が学法していて、求める常人の心を持って学法していましたので、神聖な大法はどうやってその内包を常人に見せることができたでしょうか? 「私」は主元神を騙し、主元神が学法して、法を得ることから束縛しました。
 
 例えば、「私」が発正念するとき、雑念をもっている「私」がどうやって一心不乱に正念を発することができるでしょうか? また手印はどうやって正しく結べますか? こうして正念を発しても、形式にとどまってしまい、邪なものを滅亡させる巨大な作用を果たすことができませんでした。ですから、師父は発正念に関する説法の中で、まずは自分の空間場を整理し、邪魔を取り除くように説かれました。この点は必ずまじめに実行しなければなりません。また、「私」は煉功していたとき、動作が「身神合一 動静随機」の身体の演化も最高の状態に至ることができませんでした。また、真相を伝えるときも「私」を持っていたので、純善な慈悲、巨大なエネルギーの威力を抑制してしまい、常人の背後の邪霊を解体することができず、人を救う効果は自ずと良くありませんでした。
 
 法に基づいて「私」を分析すると、うわべの現象と虚像の中の偽者の私、よく装っている偽者の私、外に向かって探す偽者の私などを見分けることができ、「私」の憎らしい真の姿をはっきり見分けることができました。私はそれを否定し、それを取り除きました。特にまじめに学法し、発正念の力を増強してから、やっと法理に基づいて人間の一面と本性の一面の本質的な区別が認識でき、そして同修と常人、事物を見るとき、そのうわべの現象、虚像に迷うことが少なくなり、波瀾があっても驚かず、気持ちが変わることがなくなりました。そして、こうしてやっと理性と正念が現れることが可能になりました。
 
 この変換を経てから、身体は常にエネルギーで充満され、真の私は元気になり、主意識が強くなりました。学法する前に、まず正念を発しますが、身体はその瞬間にエネルギーに包まれ、師父に対して、大法に対して尊敬する心を保つことができ、本性の一面が学法し、各空間の身体も学法し、法に同化し、「法が人を煉る」(『転法輪』)境地を体験しました。発正念の時、主元神は念力を集中でき、手印は正しくなり、巨大な功を発すると、他の空間の邪悪は瞬時になくなりました。エネルギーに包まれた身体をもって煉功すると、「身神合一」「随機而行」の功理を体験し、「功が人を煉る」(『転法輪』)という自動的な機制の玄妙さを理解できました。
 
 以上は、私が修煉の中で得たわずかな体験です。不適切なところについては、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。 
 
2010年10月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/18/231165.html

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