■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/11/10/mh111426.html 



法輪功修煉者は慈悲心をもち、自分に害を加えた人でも許そう

文/中国河南省の大法弟子

(明慧日本)私は1996年に修煉を始めた古い弟子で77歳です。今日までの14年間、特に2003年に夫が亡くなってから、大法を修煉していなかったならば、もし、師父のご加護がなかったならば、私は知能障害の子供を持って、今日まで生きてこられなかったかも知れません。
 
 2003年8月11日午後、夫(修煉者ではないが、大法をよく理解し、支持している)は心臓の調子が良くないと訴えました。夫には心臓病があるので、私は夫と近所の小さな診療所へ行きました。
 
 診療所の女医は何も聞かず「点滴をしましょう」と言いました。点滴をしている間に夫の容体はますます悪くなっていきました。もし、この医師が救急車を呼んで、夫を大きい病院に移していたならば、夫の命は助かったかも知れません。2時間にわたって、医師は何の処置もしませんでした。とうとう夫の呼吸がおかしくなった時、医師はやっと慌て始めましたが、もう遅かったのです。夫はそのまま呼吸が止まってしまいました。
 
 夫を早めに病院に移送しなかったことで、私は自分をとても責めました。当時、まだ大法に対する理解が浅く、修煉において未熟だった私は、後悔と深い悲しみから絶望状態に陥ってしまいました。辛くて生きていく勇気すらなくなって、師父の言葉を思い出せず、自分が修煉者であることも忘れてしまっていました。『転法輪』第四講に、「言うまでもなく、トラブルが起きる時、あらかじめあなたに知らせることはありません。何もかもあなたに知らせたら、何を修煉するというのですか? 効果もなくなります。それはいつも突然に現われるからこそ、心性の試練となって、本当に人間の心性を高めることができます。そして、その時こそ、心性を守れるかどうかを見て取ることができるのです。ですから、トラブルが起きるのは、偶然ではありません」と、師父は説かれていますが、当時、私は本当に常人のレベルにまで落ちてしまっていたのです。
 
 責任感のないその医師を訴えるようにと周囲からのアドバイスもありましたが、私はそのようにしませんでした。私は修煉者であり、医師を訴えるのは常人のやり方ではありませんか。法理をこのように理解していましたが、心性が高くないため、どうしてもその医師を許すことができません。医師は未だに私に謝っていないし、私もその顔すら見たくもありません。しかし、あいにく我が家の窓は病院の中庭に面しており、私は窓までずっと閉めていました。とても長い間、私はずっとこのような状態でした。三つのこともしてはいましたが、夫の死をどうしても忘れることができませんでした。特に、知能障害の娘を連れて診療所の前を通る時、娘はよく「お父さんに会いに行きましょう、お父さんは診療所にいるのよ」と言いながら中に入ろうとすると、私の苦しみは本当に言葉では言い表すことはできないほどのものでした。
 
 実は、法理はすで充分に分かっていました。師父は「常人なら生老病死は付きもので、そうあるべきなのです。すべてに因果関係があり、乱してはいけないのです」とおっしゃいました。それでは、どうして医師への恨みをずっと抱えて、医師を許せないのでしょうか? 私はどうして怨恨の心を放下できないのでしょうか? 内に向かって探してみると、自分が修煉者であるという意識をしっかり持っていないのが根本的な原因だと分かりました。どうして医師の謝罪を期待しているのか、どうして同情されたいのか、円満成就した大覚者は謝罪と同情を必要とするのかなどと考えてみました。自分に害を加えた人を許すことはそれほど難しくはありません。肝心なのは自分を常人として考えるか、それとも修煉者として考えるかにあります。こう思いついた時、私は心性が昇華し、解脱したとても軽やかな心地になりました。
 
 それ以降、私はその医師に会うたびに、いつも笑顔で挨拶をしています。医師もその医療ミスがなかったかのように、優しく話しかけてきます。周囲の知り合い、特に、医師を訴えるようにとアドバイスしてくれた人は、「法輪功修煉者はやはり立派ですね。まるで『相逢うて一笑、恩讐泯(ほろ)ぶ』のようだ」と賛嘆しました。 
 
2010年11月10日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/10/12/230875.html

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