■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/11/16/mh171589.html 



法理をはっきり理解すると修煉に迷いがなくなる(一)

文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は黒い巣窟(牢獄)の中で100人以上の大法弟子に接したことがありますが、その中で、本当の意味で法理をはっきり理解している人は指折り数えられる程度だったので、心からとても悲しく思いました。大法の法理に対して多くの迷いがあれば、転んでもおかしくないでしょう。
 
 一、内に向けて探す習慣が身についていない
 
 ある年配の同修は大法に対してとても固い信念を持っており、生死の大きな関門を何度も乗り越えてきました。何本かのスタンガンで、身体に何度も電気ショックを加えられた時、その年配の同修は依然として「法輪大法は素晴らしい」と大声をあげました。最後にはスタンガンの電池が切れたのです。しかし、その年配の同修は何度も迫害され、前後で5年間ぐらい自由を失いましたが、どこに漏れがあって捕まえられたかと聞いたら、原因はさっぱり分からないようでした。最後に、その年配の同修を助けて漏れを見つけましたが、結局、その年配の同修自身が内に向けて探し出したのではありません。
 
 ある同修はとても平穏な修煉の道を歩き、ほぼ迫害を受けていません。毎日、内に向けて自分の問題を探し、すぐに修正することを身につけたからです。もし普段、自分の小さい執着を気にしなければ、邪悪に隙につけ入れられ、これらの執着の要素がさらに大きく、強くなると、とても大きい漏れが生じ、邪悪に迫害されます。しかし、ある同修は自由を失った時も、内に向けて探しません。師父は2004年1月13日に書かれた『洪吟二』「別れ哀しむ」で「身は牢屋に臥(ふ)すれど傷み哀しむ別れ 正念正行して法在り 静かに思う幾多の執着の事を 人心を片付けば悪は自ずから敗る」とおっしゃいました。人心を片付けないと、邪悪は何度も向かって来るでしょう。師父は次のようにおっしゃいました。「ですから、あなたがぶつかった魔難はちょうど、あなたが向上する機会であり、内に向けて探すことができれば、それはまさにあなたが難関を乗り越え、新しい状態に入る機会になります。なぜこのように見ないのでしょうか? 魔難に遭えば、外に押し出します」(「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」)
 
 師父は終始一貫してずっと私達に内に向けて探すよう強調しておられます。内に向けて探すことは確かに修煉者の法の宝(最も有効な方法)であり、修煉者が正しい念、正しい行いができる根本的な保障でもあります。
 
 二、正念とは何か、正しく理解していない
 
 二度連行された同修に聞いた話ですが、警官がその同修の家に来て捕まえようとした時、その同修は完全に避けることができました。その同修は「私は大法弟子だ。怖がる必要はない」と思いましたが、そこで警官に不当に捕まえられ、2年間の不当判決を下されました。
 
 法理において、その同修の考えは間違ってはいません。師父は「宇宙の真理に対する堅固で破壊できない正念は、善良な大法弟子の、磐石のごとく堅固な金剛の体を構成しています。すべての邪悪は驚き恐れて、放たれた真理の光は、あらゆる生命の正しくない考えの要素を解体します。強い正念であればあるほど、大きな威力があるのです」(『精進要旨二』「同じく二言三言」)とおっしゃいました。
 
 邪悪が出現する時、同修の正念がとても強いかどうか、基準に達したかどうかは極めて重要なことです。そうしないと、正念の効果がありません。正念が足りなければ、邪悪を回避しても問題がありません。特に、われわれの多くの同修達は拷問に苦しめられていた時も発正念をしましたが、正念の作用をあまり実感できなかったので、迷って分からなくなる状況に陥ってしまいました。
 
 2004年2月15日、師父が「正念をもって悪事を制止する」の中でおっしゃった内容を思い出してみましょう。「各種の迫害の中で、迫害を制止するために、正念を駆使して逆に悪人を懲罰することができます。中に学習者を殴打する人も含まれています。正念が強ければ、悪人の拳と足が悪人自身の身体に当たるようになり、または悪徳の警官と悪人が互いに悪事を働きあうようになります。更に、痛みと傷が全部悪事を働いた悪人と悪徳の警官の体に移るようにすることもできます。しかし、その前提は、皆さんの正念が強く、恐れる心がなく、常人の執着、心配と恨みの心がないことであり、その状態ではとても効果的です。正念が出れば、直ちに効果が見られます。正念を発する過程で、驚かず恐れず、悪人の暴行が止まらない限り、正念を発しつづけます」 これで私達は、なぜ我々が邪悪によって暴行されていた時、発正念をしても効かなかったかの原因が分かるようになります。人心が多過ぎて、師父のおっしゃった発正念をする要求との差があまりにも大きく、私達が普段、着実に修煉しなかったからです。大法弟子の山を割ることができるほどの正念は、師父と大法に対するこの上ない確信から生じ、大法の法理に対するはっきりとした悟りから生じるのです。
 
 ある同修は邪悪によって罰立(ずっと立つ姿勢)された時、強い意志を持って毎日毎日続けて立っていました。これは邪悪に抵抗したようですが、実は邪悪の迫害を受け入れた中で迫害に反対したのです。その効果は言う必要もありません。私達には立つという一念もいらないのです。私は立たない、私は自由を求める、私は出ていくべきだ、と思うべきです。ある同修は黒い巣窟の中で大法を学ぶことができ、煉功の自由があるだけで満足し、それで良いと思っています。師父が私達に伝えてくださったのは宇宙の大法です。私達が学ぶことを禁ずる資格なんて誰にあるのでしょうか? 私達がどこで学ぶとしても、人身の自由を失った環境で学ぶべきではありません。師父だけに、私達が歩む道を決める権利があります。邪悪に私達の修煉の道を按排する資格があり得るでしょうか?!
 
 (続く) 
 
2010年11月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/18/231154.html

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