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口を修めることについて

(明慧日本)最近、一部の年配の同修が、「発正念」を「正法」または「正念」と簡略して呼ぶようになったことに気づきました。年配の同修がすでに言い慣れていたようなので、何度も訂正して初めて直りました。師父がおっしゃったようにしか、大法弟子は言えないのだと私は思います。無意識のうちに変えてもいけません。師父だけが法を正すこと(正法)ができるのであり、大法弟子は法を実証することしかできません。
 
 また、一部の同修は「邪悟」という単語をよく使っています。たいしたことがないのに誰々が「邪悟」をした、と言うのです。「邪悟」というのはすでに大法と対立するようになった人のことであり、邪悪となった人のことを指しているのだと理解しています。「邪悟」という表現は非常に重く、恣意に同修に対して使うべきではありません。実は「邪悟」をした、と言われている同修は皆まだ大法の中で修煉し、三つのことを行っています。これらの同修の法理に対する理解は彼ら自身の悟りに過ぎず、正しい場合も、正しくない場合もありえます。だからといって、相手のことを「邪悟」したと連呼すべきではありません。
 
 修煉は本当に厳粛なことです。普段、自分の口から発した言葉は必ず法に符合しなければなりません。師父は『精進要旨』の「たわむれ言を語らない」の中で次のようにおっしゃいました。「ぜひ、次のことに注意してください。有意にせよ、無意にせよ、話を大げさに語ると佛も驚いてしまいます。自らの修煉に障碍をもたらしてはいけません。この面でも口を修めるべきなのです。皆さんは分かるよう望んでいます」 
 
2010年11月20日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/20/229878.html

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