日本明慧
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返本帰真に向かって疾走し続ける(二)

-中国国内と日本での修煉体験

(明慧日本)

 三、日本で修煉して、執着を取り除いた体験
 
 2009年8月、私達3人家族は紆余曲折を経て、ようやく日本に来ました。日本と中国の修煉環境は天地のような差ですが、執着を取り除くことと自身をよく修めることにおいては差がありません。
 
 日本に来た私は、すぐ神韻の宣伝活動に参加し、毎日町に出てチラシを配りました。しかし、午後2時か3時頃になると、身体に疲れが出始め、人心も湧いてきました。こういうとき、私はすぐ内に向かって探し、これは自分の人心でもたらしたことだと分かりました。「すでに数時間も配った。本当に疲れた。声もかれたし、喋りすぎで口もしびれたし、とても冷えていて、手も凍えた」と、疲れると常人のいろいろな考えが浮かんできました。 
 
 邪悪が私の人心の隙に乗じて、私をやめさせようとしたのですが、私は修煉者であるため、修煉の立場で物事を考えるべきで、これは旧勢力がこのような形で、私が衆生を救い済度することを邪魔しています。これを悟ると、私はすべての邪悪を取り除こうと発正念をしました。すると、だんだんと変化が現れてきて、喉もかれず、寒さもあまり感じなくなりました。
 
 怠る度に、私は同行の年配の女性同修を見るのです。「年配者なのに、まだこのように精進して、寒さや疲れに挫けず、若者の私は挫ける理由があるのだろうか? 中国国内の大法弟子は危険を前にしても精進しているのに、私はだらける理由があるのだろうか?」と考えると、また力をふり絞って配り続けました。
 
 チラシを配る際、時には、同修たちが衆生済度と関係ない常人の話をしていました。これは邪悪が同修の執着に乗じて、時間を盗んで、知らずにだらけさせていたのです。誠心誠意にやらないと、毎日配るにしても、人を救い済度できません。これを見かけるたびに、「雑談をやめてください。少し世間話をして、少しあれこれをしていれば、配る時間が少なくなるでしょう。時間を大切に」と、私は注意します。言われた同修も精進すべきだとすぐ悟りました。同修の間で、精進していない、あるいは法に反する行為を見かけたとき、お互いに注意し合うべきです。足りない点を見つければ改めたらいいのです。大法弟子が一つの全体であるという法理を師父は説かれました。
 
 宣伝活動に参加して、至る所に自分の修煉における不足が現れてきました。それで、普段から自分の一つ一つの考えを厳しく律するようにしました。ある時、ある同修が「貴重な資源ですから、一つの家族にチラシ一枚だけを配ってください。よく見極めてください」と善意を持って私を注意してくれたのですが、「彼らは離れて歩いていたので、私には分かりませんでした」と直ちに言い返しました。しかし、すぐ、自分が間違ったと気付きました。
 
 師父は『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』で、「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」とおっしゃいました。私はすぐに内に向かって探しました。「同修の注意は正しい。私は情に動かされた」と分かりました。師父は『転法輪』に、「人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです。しかし、煉功者として超常的な、人間としては、その理で量るわけにはいかず、そこから抜け出さなければなりません」とおっしゃいました。
 
 この小さい出来事に暴露された「情」を取り除こうと決心しました。それで、私は「これは私ではなく、後天に形成された観念です」と思うと、少しずつ、平穏な気持ちを取り戻しました。
 
 宣伝活動で毎日、私はのぼりの担当になっていました。イベントの場所に着くと、先ず一番人の目を惹く場所を探します。ある日、ある同修が「のぼりをここに立てるべきです。こっちの方は道路に面しているので、見る人が多いです」と言いました。私は「やっぱりこっちの方が人が多いです」と答えると、同修が大声で「こっちの方が多いです」と強調し、場所を移すよう要求してきました。
 
 私はすぐに穏やかでいられなくなり、怒りが込み上げてきました。すると、私はすぐ内に向けて探し、同修の話をよく考えてみると、彼の方が正しいと気付きました。しかし、面倒で移したくないのです。同修が「移しましたか?」とまた聞いてきました。師父が『二〇〇二年ボストン法会での説法』でおっしゃった「どんなことが起きても冷静になって、相手のことを考え自分のことを見つめることができれば、多くのことがきっと良く行われると思います」と「それは一種の洪大な寛容であり、生命に対する慈悲であり、全てに対して善意をもって理解するという状態なのです。人間の言葉で表現すると、相手のことを理解することができるということです」を思い出して、「移すべきだ」と考え直しました。移した後、心の平静を取り戻すことができて、相手を理解できるようになりました。同修が「やっぱりこっちの方がいいですね」と言いました。私は、師父がこれを利用して私の執着を暴露して、取り除くように教えられている、と思いました。
 
 長時間にわたって神韻のチラシを配っていたら、眠気に襲われました。とても眠くて頭がはっきりとせず、立っても眠ってしまいそうでした。配った効果もよくありませんでした。すると、自分にどのような執着があるのかを探しましたが、何も見つかりませんでした。これは邪悪の邪魔だと思い込んで、発正念をして取り除いてみたのですが、効果がなく、依然として眠たい状態のままでした。これはきっと私のどこかに問題が生じて邪悪に隙に乗じられたと悟りました。この状態が数日も続きました。
 
 ある日、私は数人の同修とホームで電車を待って、急行に乗って帰ろうと思ったのですが、特急が先に来たのです。私は同修と特急に乗って、より早く家に着けると思って喜んでいました。乗ってから特急券を別途で購入する必要があると知り、合計料金は急行より2、3倍も高かったのです。
 
 そのとき、ある同修が「私には金銭に対する執着がある」と言いました。これを聞いて、私も内に向かって探し始めました。自分には一体どのような執着があって、帰りに「特急」に乗ってしまったのでしょうか。修煉の道で急ぎ過ぎて、焦る心を持っていると、師父が注意してくださったのだと思いました。冷静になってよく考えてみると、自分のすべてはこの焦る心に隙に乗じられたのです。チラシを配る時に受け取る人が少ないと焦り始めます、チケットの売れ行きが悪いと焦り始めます。学法が少ないと焦ってしまい、焦りながら早く家事を終わらせようとしました。日本語を早くマスターしたくて焦ってしまい、常人との会話の時間を無駄と思って焦ってしまい、学法する時も焦ります。一言で言えば、私のすべてが焦る心に包まれていたのです。
 
 師父は『転法輪』で「修煉は専一でなければならない」とおっしゃいました。焦る心は私に何をやっても専一できないようにさせています。この執着心が見つかってから、私は生活のすべての細かい所まで気を配り始めました。気を静めてからやることを進めるようにし、焦る心が現れると、すぐ取り除こうとしました。このようにしてから、神韻のチラシを配る時の頭のぼんやりと眠い状態が消え、何をやっても焦らずにできるようになりました。
 
 師父は『転法輪』で「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」とおっしゃいました。修煉の始まりから円満成就までの道程は、すでに師父が按排してくださったのです。どの段階でどの執着心を取り除くべきかは決められており、自分に精進する気持ちがあるかどうかにかかっているのです。如何なることに遭っても、法に照らすべきかそれとも常人に照らすべきか、選択する必要があります。法に従えば、あなたは神であり、常人に従えば、あなたはただの人間になるのです。私たちの歩み進む道が即ち師父が作ってくださった天まで届くハシゴです。
 
 以上は個人の修煉体験で、不適切なところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
 
 (完) 
 
2010年12月22日

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