日本明慧
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修煉に近道はない


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は長い間、心を静めて学法することができず、学法しながら雑念ばかりで、いろいろなことを考えてしまいます。後になって眠気が加わり、横になって10分ほど寝なければ、学法し続けることができなくなりました。発正念するときはエネルギーも感じなくなりました。私はこのことで焦り、同修である姉に、「今の私の最大の苦痛は、心を静めて学法できないことです」と、心の内を打ち明けました。心を落ち着かせて内に向けて探してみると、私には学法する裏に求める心が存在していたことが分かったのです。しかし、根本的な執着心は何かについて、探し当てることができませんでした。そのため、私はこの状態から抜け出すことができませんでした。
 
 ある日、学法しているとき、私は師父が教えてくださった法理、「煉功してもなぜ功が伸びないのか」を思い出しました。そして、私は学法の目的を正しくし、高い次元の法理を知らなければ、何をもって修煉を指導するのかとの一念を持って学法することにしました。すると、その瞬間から、今まで私を苦しめた環境から抜け出すことができ、自分自身が学法していると感じていました。今、以前の学法を思い返せば、多くのときは自分が決めた枠の中で学法していたと気づきました。
 
 明慧ネットに掲載された同修の文章を読むときも、珍しいものをあさる心、好奇心を抱き、自分の観念を満足させるために読んでいました。甚だしき至っては、当日の明慧ネットを閲覧した後、自分の観念に合う文章がなければ、失望感を覚え、明慧ネットを自分の時間をつぶす道具として考えていました。そのため私は、しばらくの間は明慧ネットにアクセスできなくなり、その原因は認識できたのですが、明慧ネットを閲覧するときは汚ない考えをもって、閲覧してはならないと分かっていても、いざ閲覧するとなると、知らず知らずのうちに、執着心を抱いて閲覧してしまいます。この状態が長く続いていたため、最近になって自分の修煉に恍惚とした状態が現れたのです。自分は何をしているのか分からず、同修の文章を読んでも共感を持たず、時には文章に対して反感を持つこともありました。正法修煉における同修の行ないは、なぜ法の要求とこんなにギャップがあるのだろう? これらの問題について内に向けて探し、明慧ネットを閲覧し、同修の文章を読むのは、正法の進展について行き、同修とのギャップを探し出して、さらなる精進をするためにあると、自分に言い聞かせていました。
 
 私は心を静めて内に向けて、学法のときに妨害される根本的な執着心について探しました。苦しみながら探し出した執着心が、私は修煉の途中で落第したことです。後になって明慧ネットの同修の文章を見て震撼を受け、修煉を再スタートしました。姉は出稼ぎに行っているため、私の周りに同修がいませんでした。そのため、同修と交流することができずに、明慧ネットに掲載された同修の文章を読んで真似していました。同修が多く学法してもたらされた超常的な状態を見て、私は多く学法すれば、同修と同じように正念が強くなり、正しい行いができると思い、同修が発正念によってもたらされた環境の変化を見て、私は発正念を多く行えば、自分の周囲の環境と常人を変えることができると思いました。ですから、私は学法しているとき、または発正念を行っているときは、いつも目的を持って、周囲の環境を変えたい、強い正念を持ちたいと求め、超常的な現象を期待していました。この状態はしばらく続き、自分の状態があまり変わっていないと思ったとき、自尊心が傷つき、師父が私の面倒を見てくださっていないのではないかと思うようになりました。
 
 私は超常的な現象を求め、周囲の環境が変わることを求めていましたが、私は修煉者の根本的なこと、修と煉を見落としていました。執着心を取り除くために近道を通ろうとし、内に向けて執着心を見つけたとしても、執着心を見つけたのだから、今度こそ超常的な現象が現れるだろうと期待していました。師父は次のようにおっしゃいました。「心性の高さが功の高さです」執着心を放棄しなければ、心性を高めなければ、本質から変わることができないのですから、元の自分にしか過ぎないのです。
 
 修煉には近道がなく、いろいろな環境の中で自分を煉磨し、執着心を放棄して、純正でかつ厳粛な心理状態で修煉に対応してこそ、人から抜け出し、神の道を歩むことができるのです。 
 
2010年12月27日

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