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しっかり学法して、執着を取り除く(二)


文/日本の大法弟子

(明慧日本)また、皆様にお話したいのは、特に知識人にとって、現在の自然科学理論で大法を測ることをしないでください。「私がもし現代的な文法でこの大法の本を整理したなら、一つの重大な問題が現われます。文章の言語構造は規範的で美しくても、さらに深く、さらに高い内涵はありえないのです」と、師父は『転法輪』の最後におっしゃいました。もし、現代科学の知識や定義で法理や師父の比喩を解釈しようとすれば、法理に対する理解と悟りを大いに妨げると思います。
 
 また、修煉の中で、今日はとても良い状態にあり、少しの法理を悟ったかもしれませんが、明日になると常人に戻ったように、体の中にエネルギーの運行を感じられなくなって、頭の中の法理も消えたようです。この状態を繰り返していました。「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、はたして高い次元へ修煉していけるだろうか、仏は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身がまぎらわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず、みんな偽者だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません」と、『転法輪』の中で師父がおっしゃった通りでした。
 
 それに対して、私はこう悟っています。大法の法理は無限大なので、我々は円満成就の寸前まで、ずっと大法の試練を受けています。我々はただ、できるだけ大法に同化して、次元を高めます。
 
 このように固く大法を信じるには、主意識を強く持って、邪魔を払って多く学法するしかありません。そうして初めて、大法が我々の思想業力を除去できます。常人の三日坊主の衝動だけでできることではありません。また、理性的に思考して、利己心を捨て、相手の立場に立って思いやりを持つことが大事です。自分の言行は修煉の次元の現れであることをいつも忘れないでほしいです。
 
 日々の一言一行において心性を修める
 
 心性の難関を乗り越えることがよくできていない時があります。ある日、教授の指示で私は1時間くらいかけて図表を作りました。やっと教授に送信して、ひと休みしようと思っていると、5分も経たずに、教授が図表の形を変えたいのでやり直すようにと言いました。私は一瞬かっとして、早めに言ってよ、時間を無駄にしたじゃない? と思いました。でもすぐに、修煉者に偶然なことはない、これは自分の「面倒くさがる心」に向かって来た出来事ではないか、と認識しました。そして、穏やかに教授の新しい要求通りに図表を完成しました。
 
 科学研究の中で、私は知識を求める強い「好奇心」を持っています。ある発表会の後、同僚の発表内容についてもっと聞きたい時、彼の態度は異常に悪くて、後で教えると言って、ずっと何も教えてくれませんでした。私は機嫌が悪くなり、ふだん何か聞かれてもあなたに教えているのに、これからあなたに何か聞かれても私は知らない顔をする、と思いました。
 
 しかし、私はすぐに、これは自分の「好奇心」に向けて来たことではないかと認識できて、気持ちがすぐ回復しました。「好奇心」は顕示心の一つで、何でも究明したい、人より多く知りたい、それで自己顕示できる、競争に優位性を確立できるのです。師父は「仏教では因果応報を唱えていますが、段取りは業力に応じてなされていますから、あなたにいくら力量があっても、徳がなければ、一生何も得られないかもしれません」(『転法輪』)とおっしゃいました。修煉者は、これらの執着と観念を放下しないといけません。
 
 利益の心を捨てる例もあります。ある日の朝、バスに乗ってプリペイドカードを通した時、システムがおかしくなったのかもしれませんが、突然カード残高がゼロになりました。「あ、2000円あまりの残高が」と焦りました。すぐにも乗務員に話して、お金を取り戻したいと思いました。しかし、これは自分の利益の心に対する試練だと認識したら、焦らなくなりました。後日、カード会社の窓口に行って、失った金額を取り戻せるかを尋ねても、駄目だったのです。「修煉者は自然に任せることを重んじるべきです。自分のものなら、なくなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られません」(『転法輪』)師父は私に、本当の物質的な損をさせているのでなく、名、利、情に対する執着を放下させるように教えてくださったのだと、と悟りました。損の大きさに関係なく、心が動じれば、放下できなければ、それは執着心です。
 
 師父の慈悲なるご啓示の下で、私はだんだんと、生活の細かいことを通じて執着を取り除くことを覚えました。自分の執着心に対する認識度は、どれほど大法を覚えたかという結果の現れだと私は思います。いつでも大法を覚え、何でも大法で測るようになったときこそ、自分の執着心を放任して悪いことをしなくなるのです。学法とは、形に止まることでなく、着実に心に刻むべきです。「機縁は一度しかなく、放下できない夢幻が過ぎ去ってから、初めて何が失ったかを知るのです」(『精進要旨』)
 
 私の些細な体得は皆さんの役に立てれば幸いです。自分を修めて、「三つのこと」をしっかり行って、自分の修煉に遺憾を残さずに、神聖な誓約に背かずに、精進していこうと思います。
 
 師父、ありがとうございます。皆さん、ありがとうございます。
 
 (完)
 
2010年12月29日

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