全体に協力する中で共に向上する(三) 文/遼寧省の大法弟子
(明慧日本)
三、協力の中で自分を修める
偉大な師父は『二〇〇八年ニューヨーク法会での説法』で次のようにおっしゃいました。「あなたの向上が第一義のことだからです。あなたの向上がなければ、全てが問題外のことになり、衆生を救い済度することも問題にも及びません」
1.苦労しながら修煉する
修煉前、私は苦難の中で過ごしました。苦難の経験があったから、修煉中の苦と難は私にとってたいした問題ではありませんでした。特に、「苦しみを味わうことはほかでもない『業』を返すことなので」(『転法輪』)の師父の法が分かり、私は夜に村に行くのも、地方に行くのも、オートバイで山路を走るのも、ぬかるみの道を歩くのも、川を渡るのも、雨の日でも、真夏でも、重い資料を持ちながら乗車や下車をするのも、たいした苦労だと思いませんでした。「気分よく楽に修煉しようとでも考えているのですか? そんなことがありえますか?」 (『転法輪』) このぐらいの苦労は、中共に監禁された同修の苦労と比べれば、まだまだ小さいのです。
2.内に向けて探す
去年の夏、同修Cさんは私を連れてある昔の同修を訪ねました。その同修は中共にいわゆる「転向」させられ、私たちと話す中で法に合わない話を多くしました。私は焦って彼女と議論しましたが、彼女は会話をやめました。
私は内に向けて探し、自分の善と忍が足りなかったので、その同修を救えず、逆に押し出してしまいました。本当に悔しかったです。
3.正念を用い、人心を用いない
常人の生活の中で多くの良くない観念が形成され、何かに遇うと、最初の一念はいつも良くない念です。修煉者はこのような人心を取り除かなければ向上できません。
夏のある日、私はオートバイに乗って同修Cさんの家へ走りました。途中、信号のところで、警官3人が突然私の後ろに現れ、1人は私の手を掴み、1人はオートバイのかぎを抜き、1人は隣で監視しました。その瞬間、私の頭の中に「警官、かばんの中のメモ帳、協力しない」という三つの念が現われました。警官は私が70歳に近いと分かって離れました。当時、私の最初の一念は警官、二つ目の念がメモ帳であったことは実際、恐怖心そのものでした。師父に要求された「皆さんが修煉の中で神に向かい、認識から徐々に人間を超え」(『法を正す中で必要なのは正念であり、人心ではない』)の境地に達していませんでした。
師父は、「人間は神に対して何ができるのでしょうか? 外的な要素がなければ、人間は神に何ができるのでしょうか?」(『法を正す中で必要なのは正念であり、人心ではない』)とおっしゃいました。師に手伝って法を正す過程で、十分な正念を修めなければなりません。いかなる状況でも、人心を用いることなく、神の状態であれば、邪悪に隙に乗じられません。
修煉する前、私は良い人だとよく常人に言われましたが、それは常人の基準によって判断されたものです。修煉後、特に外に出て人に真相と『九評共産党』を伝え、三退を勧めてから、私は本質から大きく変わりました。一部の人は中共を擁護し、法輪功を理解できず、仲が良い一部の同僚も疎遠になり、親戚の心配と家族の文句もあり、息子さえも「あなたの信望は低くなりました」と言いましたが、私の心は揺れませんでした。正々堂々と宇宙の中で最も正しいことをやっていますから、私は常人の信望はいらず、修煉者の威徳がほしいのです。このような複雑な環境の中で心性を練磨し、大法の基準に符合した修煉者になりたいと思います。
法を正すことは今日まで至り、最後になればなるほど、師父の私たちに対する要求もさらに高くなりました。残った時間が少なくなりました。時間を大切にし、衆生を多く救い済度することは、私たち一人一人の大法弟子の使命です。
(完)
2011年01月20日
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