間違った方向に導く観念を取り除く
文/中国の大法弟子
(明慧日本)最近の出来事ですが、私は他人の気分や観念に流されていることに気がつきました。このことは各種の頑固な偏見を形成しやすいのです。この頑固な偏見が私の思想を支配していました。例えば、誰かの優れているところを見て、その人のすべてが優れているという観念になり、その人の優れているところばかりを考えてしまいます。誰かの欠点を見つけると、その人の全てが悪いと考え、良くない気分になります。この偏見は、人を救い救済することと修煉の正念をひどく妨害していました。
ある日、屋根ふき職人に会いました。その人は顔が黒く全身が土だらけでした。すると、私の頭に良くない観念が現れました。しかし、その彼の仕事ぶりを見て、好感を抱き始めました。だんだん好感度が増し、黒い顔、全身が土だらけの職人がかわいく見えました。屋根ふき職人の人格を知らないのに、反感から好感に変わることは偏見ではありませんか? このような偏見を持つことは、人を救い済度する際に理性的に人の善し悪しを判断することができません。
同修と協力し合うときもいろんな偏見を形成しやすいのです。同修が行っている事が大法の基準に従っていない事に気づき、また、自分の考えに沿わないときは考えれば考えるほど相手が間違っていると思い、その考えが湧き出てきます。同修の優れているところを見て敬慕し始めます。今日に至ってもまだこの考え方に妨害されています。この心に気づいたとき、師父のお言葉「相は心から生じる」の法理に対してより深く理解しました。法に照らし合わせて、この考え方を変えた後、感情に惑わされず、人や物事に対して正しく判断できると常に自分に言い聞かせています。
学法し、内へ向かって探す過程で、師父の法理を思い出しました。「皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」(『精進要旨』「警告の言葉」)私はこう認識しています。常人が百年千年来形成された正しいと思っている道理は嘘の道理であり、私たちは修煉者として、大法の法理の指導の下で、自らいろいろな観念を変え、嘘の道理の中で形成された執着心を修めることによって、人を左右している外来の要素と、後天で形成された観念を突破し、理性から大法を理解し、はっきりと理性的に問題を見ることができ、感情に惑わされないのです。
以上は個人の体験です。間違っている所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
2011年01月21日
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