同修よ、師父の説法を一面的に理解してはならない
(明慧日本)先日、明慧ネットである交流文章を読みました。現在、ある同修たちは正法の終わる時期に執着して、師父のこのことについての一言、一部の法理だけを取り上げ、それから師父と大法を信じなくなり、完全に修煉を放棄してしまいました。読んだ後、とても残念だと思いましたが、どうしたらいいのか分かりませんでした。
今朝になって、突然これは失わず得ることばかり考える心理だと気づきました。私はどう表現したらよいか分かりませんが、本心でこのような同修たちの手伝いができればと思い、交流したいのです。
同修が途中で突然修煉を放棄する主な原因は、師父の説法を全面的、系統的、そして続けて理解しなかったからだと思います。師父のいつ、どこかでの説法を主観的、一面的に理解し、強い執着心から自分の気持ちや観念に合わせようとしています。これは修煉ではありません。修煉は常人の知識を学ぶことではありませんし、情報を読み取ることでもありません。修煉はたえず法に自分を照らして、常人の心と執着と観念を取り除くことだと思います。
皆さんが知っている通り、師父は無限の宇宙の大法で我々を救い済度していらっしゃいます。大法は奥深いものです。一人一人の修煉者はその中の一部しか理解できません。それなのに、どうしで自分のわずかに理解したもので、この宇宙の大法をはかるのでしょうか? 自分の基準で師父を見る資格があるのでしょうか? 自分と大法の関係を正しく置かないものに、その法理が師父の法身と神々から現れることはありません。このため、本当の奥義を理解できないのです。特に、師父と大法をどうかと思った時こそ、自分の心より魔が生じるのではないでしょうか? 修煉者にとって修煉を放棄することは、約束を破ることと同じではないでしょうか? 修煉者はその結果に責任を負うべきではないでしょうか?
師父は次のようにおっしゃいました。「私が法を講じ、法を解いている時、みな特定の環境、特定の条件と具体的な対象の中でやったので」(『法輪大法義解』「前書き」)また、師父は何度も私たちに注意を促してくださいました。「皆さんに教えますが、キリスト教は迫害されて三百年後にやっと普及しました。重大な使命を持っている大法弟子は一人の普通の修煉者にも及ばないのでしょうか? 大事なのは私たちがどのように物事を認識するかのことです」(『北米での巡回説法』)
師父は、1992年に正式に大法を伝えられてから今日まで、たくさんの法を説かれました。私たちはなぜ前後の文章を無視してその中の一部、一語の意味だけを取り上げ、他のところを見ようとしないのでしょうか? 師父の経文を読むとき、求めずに得ることができたのでしょうか? 執着の心で学法していませんか? そのような人たちは「法をもって師とする」どころか、常人の心と常人の理で大法を理解して、さらに自分の感情で師父と大法を見ています。いつ正法が終わるかに執着するだけなら、本当にその日が訪れたとしでも、決して円満成就はできません。なぜならば、まだ強い常人の心と執着を放下していないからです。
ここで、私は途中で修煉を放棄した同修にもっと理性をもって、冷静に考えてほしいのは、我々はあれほどの困難な道から歩んで来て、もうすぐ終わるところにきたのです。そんなに軽率に、衝動的に大法から離れられるのですか? 幾世の苦難を乗り越えてきたことを無駄にするのではないでしょうか? 億万年をかけて待っていたことを放棄できるのですか? 損をするのは自分自身ではないでしょうか? どうして私たちはいつも自分のことばかりを考えて、我々に無限の希望を託した衆生の将来を考えないのですか? 法は私たちにこのように求めています。「まず他の人の事を配慮して無私無我でなおかつ他人を先に自分を後にするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)
最後に、これらの同修に次のように呼びかけます。「同修よ、師父の説法を一面的に理解してはいけません! 一刻も早く大法に戻って来てください。師父は待っていらっしゃいます。自分の世界の無限の衆生も救い済度を切に待っています」 自分に対しても、人に対しても、責任を持ち、自分の良心に申し訳が立つようにしましょう。
次元が限られており、個人的な認識にすぎませんので、慈悲なるご指摘をお願いします。
2011年01月23日
|