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まだどんな心が放下できないのか


文/中国 浄蓮

(明慧日本)昔から世界の終末の日に関する予言はたくさんあります。特に、『新約聖書』のヨハネの黙示録には最後の審判のことが重点的に書かれている。邪悪的な勢力はもう自分たちの末日が見え、さらに狂気じみた手段で社会全体と人類を滅ぼし、あらゆる分野から人を引っ張って犠牲にしようとしています。もし、その大審判が本当に人類社会に現れたら、どうしましょう? 切ない悔しさで慟哭しても間に合いません。時間は限られています! 神々が人間及びすべての生命に与えた時間は、そう長くはありません。
 
 師尊の慈悲は果てなく広く、すべての世人と生命を救います。しかし、正法には基準と時間の制限があります。選択権のカギは大法弟子を含め、自分自身にあります。どうすれば師父に従って「三つのこと」をよく行い、歴史の約束を果たすことができるのでしょうか? 特に、この最後の段階の道では、決して緩めたり、怠けたりしてはいけません。
 
 修煉とは、人を救い済度する過程の中で、自分の常人の心を取り除くことではないでしょうか? 執着の心があれば抜け穴ができ、邪悪に利用され、あなたを消極的にさせ、精進させず、大法に疑問を持たせて、ひどい場合は最後に反対の方面に行かせてしまいます。恐ろしい結果が待っているに違いありません! 大法弟子はお互いに注意を促して、共に精進すべきです。邪悪な迫害の中で今日まで頑張って来て、その辛さなどを考えて見れば、とても容易なことではありません。このように歩んで来た大法弟子の中で、精進しているかどうか、いい状態かどうか、気が合うかどうかにかかわらず、我々はみな師尊の弟子であり、同修であり、心を開き海より広い包容力で、お互いに励まし合いながら、共に精進して一人も置きざりにしてはいけません。
 
 「善」は宇宙の巨大な力です。師尊は『精進要旨』の「善を説く」で、「真・善・忍の三文字を分けても、同様に、真・善・忍の特性を充分そなえています」と教えてくださいました。大法弟子は宇宙の最高の特性である「真善忍」を修煉する以上、必ず心を広くして、内に向けて自分の不足を探すべきです。私たちが共に修煉する時間はそんなに長くないと思います。大切にしましょう! どんな状況にあっても、問題のある同修と疎遠になったり、無視したりするのではなく、主動的に注意を促しながら助け合い、決して大法から離れさせません。大法こそすべての不正を正すことができ、すべての惑いを見破ることができます。ですから、法に基づいて法を理解し、正しく歩んでこそ、邪悪に隙を与えず、大きな損失を避けることができます。
 
 私が獄中で、ある年配の同修に会った時に聞いた話です。彼の元神は、師父に法輪世界にまで連れられたことがありました。そこで自分の世界が見えて、元神の真の母にも会いました。表現し切れない絶妙な光景でした。黄金のように光る師尊の佛体の下で、子供のように楽しく遊びました。延々と長く待ちに待った母と会った瞬間、その喜びは表現のできないものでした。人間界にいる私たちは、真の親が切なく帰りを待っていることを皆忘れてしまいました。体にあった病気を治そうとする母を、師父は止められ、これも順序のある安排だとおっしゃいました。
 
 自分の世界に行って見たら、あるところは何もなく、あるところは昔の光を失ってしまいました。自分の不足でこうなったと思い、とても残念で悲しかったです。降りたときに師尊から4本の金竜をいただき、天目で随時見え、法を実証するときに守ってくれるし、邪悪も取り除きます。しかし、中国共産党に不法監禁された後、恐怖な圧力で、法に基づいて法を認識しなかったため、良心に反して「転向」されてしまいました。それから、天目もだんだん見えなくなり、4本の金竜もいなくなりました。このことを言い出すたびに、彼は悔し涙を流しながら「私は本当に良心もないです。師父はあれほど病業を取り除いてくださって、背負ってくださって、あれほど与えてくださいましたが、自分は常人の情といろいろな執着のために、邪悪に隙を乗じられ落ちてしまいました。夜はいつも泣いて目が覚めます。師父、本当に申し訳ございません!」
 
 大法弟子に固い正念があれば阻害になるものはありません。転んだところから立ち直ればいいのです! 彼が書いた「厳正声明」を見た警官たちは皆びっくりしてしまい、自分と関係がない、上司に見せるようにと言いながら逃げてしまいました。強い正念はまるで爆弾のように巨大な威力があり、邪悪を脅かし、あらゆる邪悪を一瞬にして解体させます!
 
 振り返れば、風雨の中で歩んで来た大法弟子は本当に容易ではありません。中にはしっかり付いて来なかった人もいれば、後ろに残された人もいます。また、裏切るものもいます。私自身も同修に売り出されて、刑務所に入り、家庭も崩壊してしまいました。長い間、強い憎みで胸いっぱいでした。
 
 私の状況と似ているある同修の話を聞いたことがあります。彼は、獄中で自分を裏切った若い同修と会った時、相手の恥ずかしく申し訳ない表情を忘れることができませんでした。ひどい拷問で肋骨が折れた若者は耐えられず、その邪悪で困難な環境を経験した誰もが、その辛さを知っているはずです。どうして恨むことができますか? どうしてまだ憎むのでしょうか? これも若い同修の永遠の傷であり、永遠に背負うことになります。悪らつな環境の獄中で、彼は節約した食べ物などを他の同修に譲り、犯した過ちを補っています。大法弟子はみな善良です。しかし、人間の肉体と人間の心があるため、いろいろな過失や誤りが生じます。彼らを包容すべきです。なぜならば、我々はみな同修であり、師父の弟子であります!
 
 私たちは大法と一緒に存在し、将来の宇宙と一緒に存在します。放下できない事などあるものでしょうか! なぜ邪悪に怯えるびですか? 深く考える必要があります。邪悪な中国共産党は大法弟子のために存在しています。もし、我々全体が師父のご期待の通りの基準に達したら、邪悪も瞬時に消えてしまい、何を怖がるのでしょうか? 師父も神々も私たちを見守っていらっしゃいます。もし今、正法が終わって、良心をはかる大審判に直面したとしたら、私たちはまだ、どれほど常人の心を捨てていないか、やるべきことをどれほど達成していないか、衆生をどれほど救えなかったか、皆で考えてみましょう。そうなると、私たちが味わった苦難にも顔向けできません。その苦難は天よりも大きいのです!
 
 師尊は宇宙の大法を我々に伝えてくださり、輝く光栄を与えてくださいました。決して目の前の一つのことや、一人の人間のために、精進の足を止めてはいけません。同時に、私たち大法弟子は全体であり、お互いに大切にして、注意を促しながら助け合い、一人も落とさず、邪悪を取り除くことに力を尽くし、衆生を救い済度して、自分の歴史の約束を果たしましょう! 
 
2011年01月26日

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