心性を向上させ 思想業力を取り除く
文/中国の大法弟子
(明慧日本)私は長い間、大法修煉に対する認識が甘く、心性の試練にどう対処すればよいのか分かりませんでした。ひどいことを言われて衝突しても、「どうせ私とは関係ない」と思っていました。あるとき、「苦しみに耐えることで業力を取り除くことができる」と知り、耐えていましたが、執着心を持って耐えていることに気がつきませんでした。実際、この二つの状態は人心で、前者の「すべてのことは私とは関係ない」という状態では修めることができません。後者は、執着心を放棄せずに耐えていますが、これは師父が同修の口を借りて、「内へ向かって探すことが修煉」だと悟らせていらっしゃるのです。
古い修煉者は、修煉に対して不明なことがあってはならないと、同修の修煉交流から悟りました。師父が私たちに残されたグループ学法、集団煉功の形式は得る物が多く、心性を向上させ精進することができます。どんなに忙しくても、環境がどんなに厳しくても、同修との交流と切磋琢磨する機会を大切にしなければなりません。交流の中で法に照らして、内へ向かって探せば、良い環境が生まれ、清らかな場所になります。明慧ネットは非常によい窓口です。中国でグループ学法の環境がない同修はネットで交流し、精進することをお勧めします。同修と交流する中で、私は「思想業力」の問題について話しました。
同修は、「思想業力があるときは、必ずそれは自分ではないと認識し、大きな声で拒否し、『滅』と念じます」と言いました。この同修は思想業力が強いとき、師父の肖像の前で、「師父の肖像がここにあります。師父を罵る自分を滅します」と言うと、涼しい風と共に体を通りぬけたように感じたと言います。思想業力には厳しく対処する必要があり、軽視してはなりません。さもなければ、思想業力と主意識の区別がつきません。思想業力が出てきたとき、「私は、あなたがしたいようにはさせません」と自分に言います。正しい念、正しい行いの中でこれらの思想業力を滅します。実際、これらは後天に形成された人の観念であり、それを認めるということは常人の考えに同意することであり、そこから抜けられません。
肝心なのは、法と修煉に対して揺るぎない心があるかどうかであり、「あなたは修煉したいのか」と自分に問いつめます。師父も次のようにおっしゃいました。「動揺しない人なら、業を消すことができます」(『転法輪』)ある同修は、「最近、常人が私たちの事をあれこれ言っても動揺しませんが、同修に言われたら動揺しやすいのです」と言いました。まだ闘争心があり、必ず相手を落としてやると思う気持ちがあるのです。そんな同修に、師父は内へ向かって探す機会を按排してくださったのかもしれず、まだ放棄していない執着心を見つけることができれば、良い効果を得るに違いありません。
以上、私の体験です。間違っているところがあればご指摘ください。師父の大いなる済度のご恩に感謝し、必ず三つのことをしっかりと行い、より精進します。
2011年02月08日
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