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師と法を真に心から信じる

文/中国の大法弟子・静蓮

(明慧日本)私はこの1年来の、師と法を信じる修煉について書いてみたいと思います。師と法を信じることについて、私には問題がないと思っていました。私は修煉を始めたときから、自分が幾世も待ち続けたのはこの大法であると分かっていました。1999年1月に修煉を始めてから、一度も動揺したことはなかったのです。迫害がどんなに凶悪なときも、私の大法に対する信念、「真・善・忍」に対する信念は揺るぎなく、師父は限りなく偉大であり、濡れ衣を着せられたと思いました。
 
 その当時、私の脳裏にあったのは、この迫害は師父が言われた「試練」であると思いました。ですから恐怖に屈し、修煉をあきらめた同修を見かけると、彼らは可愛そうだと思うと同時に、心の中では嫉妬心によってもたらされた他人の不幸を喜ぶ心が生じてきました。この良くない心は、修煉者が取り除くべき執着心なのですが、長期にわたり私はこの執着心に気づきませんでした。そのため、当時の私は師と法を信じることについて、根本から信じていたわけではなかったのです。
 
 ですから、師父がおっしゃったように、最後の最後まで根本から法に対して信じているかどうかの試練があるという法理に対して理解できませんでした。今になって、何回かの出来事によって悟ったのですが、師と法を信じるということは、大法は素晴らしいと思い、疑わなければそれで充分に信じていることになると思っていました。実はそうではなく、それは、真に師と法を信じることには程遠いのです。
 
 それでは一例を挙げましょう。今年の春、地元で50年ぶりの大雪が降りました。屋上に大量の雪が積もり、融け始めるときは雨漏れになる家が多かったのです。我が家も最上階にあり、雪融け水で雨漏れになりました(これまで雨漏りになったことがない)。なぜこうなったのでしょうか? 修煉者は内に向けて探さなければなりません。私の修煉に漏れがあるかもしれず、もしくは師父が啓示してくださっているかもしれません。
 
 私は発正念をして、昨日グループ学法の際に起きた出来事を思い出しました。面識のない同修が街で『共産党に対する九つの論評』を配布していた際、警官らに強制連行されました。グループ学法のとき、ある同修は彼のために発正念を行った方がよいのではないか、と提案しました。私は心の中であまり賛同していませんでした。強制連行された同修について、彼のやり方は理知的ではなく、きっと隙があり、損失が大きすぎると話しました。提案した同修は落ち着いて、どんなに言われようと、彼の行動は素晴らしい、私たちは手助けすべきだと思うと話し、私に、あなたは何らかの心が存在すると言いました。私は少しばかり不満でした。
 
 しかし、自分の認識が間違っていたことを今になって分かりました。同修に隙があったとしても、邪悪に迫害されることを許すべきではなく、私たちには師父のご加護があるのですから、彼に対して不満を持ってはなりません。それは、利己的で善のかけらもないのではありませんか? 善良な常人でさえも、他人の難儀を見て同情するのに、私はどうでしょうか? 同修を手助けしようとしませんでした。師父はおっしゃいました。「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」(『2002年ワシントンDC法会での説法』)
 
 なぜ師父の言葉を忘れたのでしょうか? なぜ師父の法に基づいて行わなかったのでしょうか? 私はひどすぎます! 長い間修煉してきたのに、今回の行動は常人にも及びませんでした。「私」を中心に考えたのは、旧宇宙の私ではありませんか? 旧宇宙の理ではありませんか? 私たちは修煉によって無私無我で、他人が先、自分は後という正覚の境地に達するのではありませんか? ここまで考えたとき、悔し涙が止まらず、心の中で師父に、「師父、ありがとうございます。弟子は間違えました。弟子の修煉には大きな漏れがありました。弟子はこの良くない執着心を必ず取り除きます。この執着心は私ではなく、後天に形成したよくない観念で、私ではありません」と告げました。そして、気がつくと、雨漏れが止まったのです。
 
 ここからが、私が話したい重要なポイントです。私は漏れた雨水を捨てました。そして、天気予報では明日は雨なので、万一、雨漏りが発生するかもしれないと思って、バケツを置いておこうと思いました。師父はおっしゃいました。「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」(『転法輪』)私のこの一念は、常人としての一念であり、良くない念です。翌日になり雨が降った際、やはり雨漏りになりました。そのとき初めて分かったのですが、この雨漏りは自分が求めたものです。なぜ、求めたとおりに雨が漏れたのでしょうか?
 
 それは、真に師と法を信じていなかったからです。師父の説法の中で、「憑き物のある人は、すでに取り除いてあげました。しかし彼はその憑き物がまた存在しているように感じ、疑心はまた憑き物を招いてしまう可能性があります」という法理を教えてくださいました。これは師と法を信じるかどうかの問題ではありませんか? 雨漏りの出来事から、私は「私心」を見つけることができました。同時に、師と法を信じる心は、確固たるものとなっていなかったことが分かりました。私は迷わず雨水を受けるバケツを収めました。その後、雨が降っても一度も雨漏りになることはありませんでした。もし、師と法を信じることを前提にせず考えているのであれば、それは精進しているとは言えないのです。
 
 ある日の夜遅く、駅で同修とバスを待っていました。彼女は時間を見て、もう遅すぎるので、バスはないだろうと言いました。私は疑わずに、大法弟子がバスを待っているのだから、そんなはずがないと言いました。数分後、1台のバスが来てくれました。
 
 同修に覚えておいてほしいのは、私たちは大法弟子なので、師父が面倒を見てくださっています。私たちより幸運な生命はいません。師父が見守ってくださり、あなたが精進しているかどうかに関わらず、師父は一度も私たちを見捨てられたことはありません。ただ、私たちの修煉が精進していないとき、師父が守ってくださっていないのではないか、と思ってしまうのです。そう思った原因は、しっかりと学法しておらず、三つのことをしっかりと行っていないことによるものです。あなたがよりよく学法ができたとき、法をもって心を修め、自分に対して厳しく要求するようになります。このときになると、あなたは法との距離が近く感じ、師父が近くにおられるように感じるのです。
 
 私はこれらのことを悟ったとき、心の底から叫びました。私には師父がおられます、私には師父がおられます、とても幸せです! と。
 
 そうですね、私は全宇宙の最も幸運な生命として、卑屈になることはありますか? 周りの常人のことを考えると、彼らはかわいそうで仕方なく、いつか彼らにも佛を敬う心が芽生え、尊師に済度されることを祈ります。ここまで書いたとき、再び涙で頬を濡らしてしまいました。唯一、自分をしっかり修煉して、衆生を多く救うことで、師父の慈悲なる済度に、広々とした佛恩の期待に背かないことになります。ここで、もう一度師父に感謝いたします。
 
2011年02月08日


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