■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/02/10/mh110827.html 



自我を放下し、神韻の宣伝活動に協調する(二)

文/ベルギーの西洋人の大法弟子

(明慧日本)公演が終わってから、皆は嬉しくてしばらく休もうと思いましたが、神韻のヨーロッパ公演は空白期間がありました。5月には公演がほとんどなく、芸術団をニューヨークに戻させるか、あるいは彼らをホテルに泊まらせ、何もせずに待つかでした。私たちはブリュッセルの近郊都市シャルルロワで小さい劇場を見つけました。そして、その期間の劇場が空いていたので、私たちは10日間の公演を提案しました。このアイデアは、私たちにとって大きなプレッシャーでした。そこではフランス語を主として使っていますが、私たちの中にフランス語が上手な同修が極めて少ないのです。あと6週間のチケット販売のため、すべてのホリデー企画が全部ふいになりました。
 
 確かに大変困難だと思わない人はいませんでした。私はブルッヘ公演の総協調人に公演の協調人を担当することを勧められたとき、私のか細い両足はがくがく震えました。しかし、シャルルロワ公演はふと思いついたことではなく、私たちは神韻芸術団及び全ヨーロッパ協調人の支持をいただけると私ははっきり分かりました。しかし、数週間のうちに7千枚のチケットを販売することに対して、私はやはり頭がふらふらしました。
 
  実際、私は一つの企画を積極的にしたことがなく、協調の仕事で信頼できる人というイメージも持っていなかったのです。周囲に能力がある人が数人おり、彼らは喜んで協調するといつも私に言っていました。
 
 私は震撼しました。安逸心を放下し、いつも他人が重荷を担い、私は後ろの席で見守るやり方を放下しなければなりません。シャルルロワ公演の協調人の重責は、私の体の一つ一つの細胞に巨大なプレッシャーを感じさせました。私が安逸を追い求めれば求めるほどさらに辛いと感じました。私は全体として、私たちはいつも頭の枠の中で神韻を見て対応し、一つ一つ判断していると感じました。私たちは戦略を練りましたが、思いどおりにいかなかった場合は驚き、巨大な列車が走るように、一つ一つのカーブを曲がるとき、あるいは上下に小さく揺れるとき、驚いて急ブレーキをかけました。私たちには自信が必要だったのです。
 
 堅く師を信じ、法を信じます。この言葉を書いたとき、私はさらにはっきり分かりました。大法弟子全体がみな円融し、一人一人が自分の観念を放下すれば、すべての困難が打ち破られ、天兵天将はいつも私たちを助けます。しかし、本当にやるとき、「今、私たちは正念をしっかり持って突進し、師父のおっしゃったようにやります」と、口先だけで言ってはいけません。
 
 また、他の同修に強制してやり遂げてほしいと、他人を責めたりしてはいけません。環境は穏やかに形成され、一つの強大な場のようにすべての大法弟子の能力が皆その中に集まれば、まだ行動していない同修はその開いているドアからの光と暖かい雰囲気が見えます。こうなれば、一つの環境の中で、みな自然に心からやる気が生じるのです。
 
 私の理解は、一人一人の大法弟子が皆この環境作りに自分で働きかけていました。同時に、協調人の責任は皆を集め、同修の参加を促し、積極的に同修を助けて心の悩み及び障碍を取り除くことです。この方面で、私は時にあまりよくできませんでしたが、全体の環境が積極的に進んでいるとき、私は常人の安逸心に揺れました。「神韻の仕事は終わった。少しのんびりしましょう」というこの現象は珍しくありません。多くの人は仕事を終えた後、静かに他の仕事に没頭し、あるいは消極的に変わりました。
 
 師父は『マンハッタン説法』で次のようにおっしゃいました。「皆さんの現在のこの修煉は修煉形式に関する要求と束縛が見えないのですが、現実社会で修煉していれば、人間にとって本当に各方面から誘惑され、いつでもどの出来事においても、あなたが要求に達しているかどうかのことがあります。ですから、歩み続けてきた人は本当に素晴らしいのです」
 
 一緒に学法と交流をすることは形式だけでなく、これは家での勉強、あるいはネット上での勉強で代替できるものではありません。これは師父が私たちに残された環境で、私たちは大切にすべきです。この環境は多くの人の観念が取り除かれることを助け、法に対する皆の異なる方面からの異なる理解を円融し、この環境を強化できます。この環境を保護して維持しなければ、私たちは具体的な仕事をやるとき、個人の事、人の観念、悲観と消極的な態度はみな私たちを妨害します。
 
  あなたがトラックを運転しているとき、いくらアクセルを踏んでも速力がなく、気がついたとき、エンジンから煙が出始めるのです。次回、神韻ヨーロッパ公演の時期が来るとき、多くの同修はまた心性の摩擦が現われ始める時期だと思うかもしれません。私たちはもちろん成功を望み、師父の要求に従って行いたいのですが、深いところを掘ってみると、やりたくない気持ちを見つけるのです。
 
 私たちの決定に自信を持つか、あるいは積極的に神韻を広める仕事に加わるかについて、強固な環境作りは欠かせません。シャルルロワ公演が突然現われたことは、私たちが歩みを加速して法を正す進展についていくようにと暗示していると私は思いました。私たちがいつも慎重で、ゆっくりするとき、誰を責めるべきでしょうか? 私には十分な確信と自信があるでしょうか? 振り返って見ると、私は受動的に依託された責任を受け、会議を企画し、各検討を調和し、私たちの仕事の重要性を強調するなどの、全体の力に貢献する内心からの強烈な願望が欠けていました。私たちは突然、ブリュッセル地区で1週間の公演が増えたことに直面して、歩みを加速して正法の進展についていくべきだと思いました。
 
 その期間、総協調人として、巨大なプレッシャーを感じ、自分は全力を尽くさねばと感じたとき、各活動を企画したくありませんでした。ある協調人は、シャルルロワのチケット販売に参加した同修が少なかったことを責めた私を怒りました。今、この件を思い返すと、私は彼の気持ちをさらに理解できました。私はこの仕事の責任を担っており、私の責任はシャルルロワ公演前の6週間から始まったのではなく、数年前から始まっていたのです。
 
 シャルルロワでの数回の公演が成功だったとは言えませんが、完全に失敗したとも言えません。一部の上流社会の人は公演を鑑賞に来ました。同時に、ヨーロッパの神韻協調チームも一定の期間の中で、同じ場所で公演を開催する経験を学びました。多くの困難と苦労に直面するにもかかわらず、ベルギーの同修、またヨーロッパ各国からの学習者は最も困難な仕事をするために来たのでした。
 
 私がこれらのことを述べるのは、ヨーロッパでの神韻の仕事をさらによく行ないたいと思うからです。他の同修は、現地の協調と協力の中で上述した一部の問題を見つけるかもしれません。私の交流がヨーロッパで一つの全体を形成することに少しでも貢献でき、神韻公演を円満に成功させることを望みます。
 
 師父、ありがとうございます。同修の皆さん、ありがとうございます。
 
 (完)
 
 (2010年ヨーロッパ法会で発表) 
 
2011年02月10日


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