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遅く修煉を始めたからこそ、奮い立って追いつかなければいけない(一)

文/北京の大法弟子

(明慧日本)私は2005年末に、アメリカへ出張しました。私は法輪大法の書籍を自由にダウンロードできる環境をずっと手に入れたかったのですが、その機会をやっと手に入れることができました。法輪功が迫害される前、私は、法輪功はただ普通の病気治療と健康保持のための功法であると誤解していました。
 
 中共(中国共産党)が全力を尽くして迫害を開始したとき、やっと法輪功は普通の気功ではない可能性があると意識できました。しかし、調べようもなく理解しようとしても困難でした。
 
 中共のテレビ、新聞での宣伝について、私は普段見ません。なぜなら、中共に対する理解から、あれらのものにはあまりにも邪悪な要素が多いと分かっていたからです。
 
 上層部から按配されてきた、法輪功修煉者に対する洗脳任務について、私は法輪功について分かってないという理由で、ただ形式に留めていました。後になって、わが部門に一人の法輪功修煉者が着任しました。しばらく観察してみて、彼は正直かつ善良で、信念が強い人であることが分かりました。私は、この世にまだこのような人がいることに驚嘆しました。
 
 そして、本当に法輪功とは何かを調べようと決心しました。この一念により、私はしばらく経ってからアメリカへ出張することができ、同年のクリスマスに万古からの機縁である、宇宙大法を得ることができました。
 
 私は『転法輪』を連続して3回読みました。そして、目の前に置かれている書籍が私がずっと探していた宇宙真理であると知ったとき、私は感動がやまず、師父の写真を拝見しながら、涙を流しました。私は小さいときから、修煉したかったのです。今になってやっと宿願を成し遂げることになりました。学法するとき、全身が透明になり、驚きのあまり私は座ることができず、外に出て、歩きながら「真・善・忍」を黙々と念じてみました。一文字を念じる度に体内ではとても大きな震動があり、しばらくは穏やかにならず、間をおいてからやっと次の一文字を念じることができました。その後の学法で、それは体内で、天地をくつがえさんばかりの変化が起きていることが分かりました。その時、衆生にどんなふうに歓呼していたでしょうか。
 
 修煉を始めて間もなく、中共が大法弟子の生体から臓器を摘出している悪行が暴露され、世界を震撼させました。中共はとてもはびこっていましたが、邪悪がどんなに邪悪であれ、私が師父に手伝って法を正す歩みを阻むことはできませんでした。私は心の奥深いところで、自分が早く大法を得られなかったことを遺憾に思っていました。私は、明慧の場を借りて「天上と人間世界に向けて宣言します。私は大法の一粒子であり、いかなる要素も大法弟子としての決心と信念を緩めることができません」と誓います。
 
 いま振り返ってみると、佛恩は広々としていました。修煉を始める半年前に、私は連続して何度も生命の危険に遭遇しましたが、すべて分からないうちに解除されました。意識がもうろうとする中、神佛が加護してくださっていると感じましたので、廟に行って菩薩に香を焚こうと思っていました。後になってやっと、それは師父の法身がとっくに私を加護してくださったからだと分かりました。法を得てから、大法の不思議さが現れてきました。
 
 長い間、私を苦しめていた痙攣性胃痛が、ある夜、ほかの空間からフーッと体から離れていき、まるで体のその部分がなくなったような感じがしました。私は慌てて体を確認し、胃と腹部が存在しているのを確認できて、やっと安心しました。それから、胃の痛みは少しずつ緩和され、後にはなくなりました。
 
 一、学法して心を修め、心を痛めて骨身にしみてこそ執着を取り除ける
 
 私は大学を卒業して、勤務先もよく、中級レベルの職位に就いていて、専門領域でも抜群に優れていて、社会の成功人士に属していました。聡明で、真面目で自分でも悪くないと思い、まだ良い人に属していると言えます。ですから、修煉を始めたころ、学法と修煉は難しくないと思っていました。自分の聡明さと才知、常人の悟性に頼れば、法を遅く得たとしても問題はないと思っていました。しかし、実際そうではなかったです。
 
 法を得た初期、法を一回学んでも頭の中が空っぽで、内容を覚えられず、自分でもとてもおかしいと思いました。どういうことなのか? 悟性がこれほど優れていないのか? 以前、他の本を読んだ時はこのような状況ではなかったのです。日常生活の中で、トラブルに遭遇した時も、法の内容を覚えていなかったため、法に則って物事を測ることができず、依然として、常人の状態でした。
 修煉は人を待ってくれません。修煉の道はいったん按配されると、心性の試練が相次いでやってきます。その時、心が静まらず、とても苦しかったのです。心の中では、そもそも法を得たのが遅かったのに、さらに悟性も優れていないとはどうしたものか? と思っていました。
 
 私は師父の各地での説法の中から答えを探し、師父から有効な方法を教えてもらえないかと思いました。いくら探しても、師父はただ「修煉には近道がありません、ただ法を多く学ぶしかありません」と説かれています。仕方なく、着実に学法する決心をし、繰り返し学法しました。たまには思想業力が邪魔をして、表面的な法理はあまりにも簡単だと思い、その考えが学法することを邪魔しました。しかし、自分の正念ははっきりしており、自分が法の内包を理解するまでには、ほど遠いと分かりました。
 
 師父の各地での説法と『転法輪』を一緒に勉強する中で、師父の学法の重要性についての説法を絶えず復習し、特に、師父の説かれた「知識人が大法を学ぶにあたっては、ある最も突出した問題に注意すべきです。つまり、普通の常人が理論的な著作を学習する方法で学んで」、「大法をよく学ぶには、いかなる目的も抱かずに学ぶことこそ正しいのです」、「覚えておくべきことは、求めずともおのずと得る、ということです」(『精進要旨』「法を学ぶ」)を学んで、やっとこの障害を克服できました。私が知っている常人の中には、自分が聡明であると思い込み、大法の書籍は講演みたいで、あまりにも簡単だと思い、万古の機縁を失った人がいます。
 
 法を読むことから、法を暗記するに従って、法理はますますハッキリしてきました。一人の修煉者として、今後の道は新しく按配されます。修煉の道において、偶然なことはありません。会社の仕事面では努力していて、ベテランで、才能もあり、人とも仲良くしていたため、上司と同僚らに尊敬されていました。間もなくして、新しい上司が転勤してきました。彼は私利私欲を重んじ、独りよがりで、万事において、責任を追及されたら常に他人に転嫁していました。間もなくして、その上司は会社の上下のすべての階層の人の不満を引き起こし、彼の一部のやり方、ひいては同僚があざ笑う対象になりました。
 
 私も仕事中、彼とうまく協調、協力できず、トラブルを起こしました。最初は学法が深くできておらず、内に向けて探すことを知らず、もっぱら相手の不足を強調していました。そもそも、この類の利己心の強い人を軽蔑していたので、結果はさらに硬直しました。この状態がしばらく続くと、私は異変を感じました。
 
 私は修煉者だ、どうして常人とトラブルを起こすのか? これが修煉なのか? 修煉の道のりに偶然なことはない。そして「今後煉功する際さまざまな苦難に遭うでしょう。それらの苦難がなければ、修煉がどうやってできるでしょうか? 誰もが和気藹々としており、利益についての衝突や心が乱されることもなく、ただそこに坐っているだけで、心性が高まることになるでしょうか? そんなことはまずありえません。人間は実践の中で本当に自分を錬磨しないかぎり、向上することはありえません」(『転法輪』)を繰り返して学びました。
 
 内に向かって探すことを少しずつ学ぶことができました。長期にわたり、党文化の中で形成された闘争心はそれほど強烈で、根深く、小さい時から受け入れた闘争哲学から、いま日常的に注がれている敵対勢力、反華勢力、動乱に警戒しないといけないなど、党文化より注がれた闘争心理の変態は、人に平和な心で、周囲のすべてに対応できないようにさせています。このような現象がすでに日常茶飯事になっていて、私はこれを取り除こうと思いました。
 
 しかし、実際実践するとなると容易ではなく、本当に心をえぐるほど骨身にこたえました。しばらくすると、内心が少しずつ穏やかになり、以前意見が統一せず、他の部門に渡してから進んでいなかった仕事を完成させ、少しずつ上司に認められ、理解され、トラブルは解決されました。
 
 その後、仕事と日常生活の中で、また大小異なるトラブルに遭遇し、闘争心がまた現れましたが、だいぶ弱くなりました。しかしまだ残っており、なくなるまで取り除き続けようと思い、常に警戒していました。
 
 私は、闘争心は私たちが修煉する中で、穏やかで、寛容な態度を保てない主な原因であることを体験できました。師父は「真に道を修める人同士でも互いに認めないことがありますが、闘争心を無くさなければ、嫉妬心が生じやすいのです」(『転法輪』)と説かれました。したがって、中国本土の同修、特に長期にわたり、党機関で仕事をしている同修は、必ず党文化の闘争意識を取り除くことに注意しなければなりません。
 
 師父は「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、自分自身を根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分を後にするという正覚にまで修め遂げなければならない」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)とおっしゃいました。私(し)が旧宇宙の「成、住、壊、滅」を決定するのです。
 
 自分でも私心がとても重いと感じました。一旦、自身に影響があり利益を損なうことに遭遇すると、とても苦しかったのです。これは私心が作用を働いていると思い、この私(し)を取り除こうと努力しましたが、効果は依然として良くなりませんでした。みたところ、この私(し)は一気に消滅できるものではなく、長期にわたり絶えず取り除くべきものでした。最近、この方面において、さらなる悟りがありました。
 
 勤務中、一人の同僚とトラブルが起きました。原因は相手の仕事ぶりがあまりにも粗く、統計数字が正しくなかったことにありました。私が確認と改修を求めても、結果は変わらなかったのです。最終的に、私が自ら資料を持って、相手のところを訪れて確認をし、関連するメンバーに新たに作成するように要求すると、相手は不愉快になり、私に対して不満を覚え、私を相手にしてくれなかったのです。
 
 私は修煉者であり、彼と同様ではいけません。そして、私は依然として、同じ態度で接しましたが、心の中では苦しく感じました。原因を分析してから、私は自分の仕事の方法が簡単すぎている、間違ったことに対して、そのまま流してはいけない、と認識しました。問題はどこにあるでしょうか? 振り返ると、最近、順調にいかないことがあると不愉快になり、言動もそれほど穏やかではなかったのです。
 
 寛容心が足りないからではないでしょうか? これらのちっぽけな問題はその原因の所在ではありません。あまりにも利己的ではないでしょうか? これを思いつくと、内心の沸きかえりが止まりました。ほかでもなく、利口心が作用を働いていました。最近、大法弟子が邪悪を取り除く文章を読み、高次元の邪悪を消滅するときに「私(し)」が一塊落ちてきた、というのを読み、とても驚きました。師父は法を正しており、乾坤を再び作り直している。私(し)は旧宇宙の属性です。新宇宙は他人のためのもので、無私無我で、他人を先に、自分を後にし、永遠に存在します。大法弟子は旧宇宙から脱皮して、「真・善・忍」の新宇宙に入らなければならず、必ずこの「私(し)」を徹底的に取り除かなければいけません。
 
 その後、数日間にわたり、私は発正念して、主にこの「私(し)」を取り除きました。その後、自分に微妙な変化が現れたことに気づきました。他人に対して、自ずと相手の心境を考え、他人のために考えるようになりました。私は師父の「善」と「慈悲」に関する説法を思い出しました。善は大覚者の基本的な本性で、慈悲は一種の境地です。
 
 功績を挙げて著名になることは、常人が執着して追い求めるものです。修煉を始めたとき、私はちょうど勤務先で全てのことがうまく進んで絶好調の時でした。記者からの特別取材を受け、原稿の取り寄せが絶えず、大いに発展しようとしている時でした。
 
 修煉を始めた後、洪大な法理、大昔からの使命に比べると、官職などは比較しようがありません。私はすべての原稿の取り寄せを拒否し、日常の仕事をする以外、力を尽くして、大法弟子が行うべき三つのことを行い、これらの無意味な文章書きに時間を費やしませんでした。
 
 最初は他人に理解されませんでした。「どうしたのですか? 私たちを助けてちょっと書いてください」と言われました。一回はどうしても拒否できない原稿の取り寄せがあって、その中に個人の仕事の経験を生かさなければなりませんでした。私は、「よし!」党文化を深く受けた領域に、新鮮な空気を少し吹き入れようと思いました。私は自分の心理状態を調整した後、修煉者の清い心を持って、その文章を書きました。
 
 文章が編集部に届くと、編集者は称賛に絶えませんでした。読者からの手紙では、私の書いた文章を読み、文章で述べられた仕事に対して、「まったく新しい認識ができた」と書かれていたそうです。また、他の同類の雑誌では、私の書いた文章を例文として扱っていました。
 
 (続く) 
 
2011年02月19日


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